テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
もくもくもくもく(旧nono)
19
それからの数日間、瑞樹はまたベランダに出てこなくなった。
介護のことで相談の連絡を入れれば、返信は滞りなく届く。いつも通りの丁寧で、隙のない言葉遣い。けれど、それだけだった。「おはようございます」や「今日もお疲れ様です」といった、以前なら自然に添えられていた他愛のない一言はどこにもない。
(……また、避けられてる)
夜、洗濯物を取り込むふりをしてベランダへ出ては、隣を仕切るボードの向こうを伺う。けれど、そこにあるのは誰もいない暗闇と、室外機が低く唸る音だけだ。冷え切った夜風を浴びて部屋に戻る――そんな無意味な行動を毎晩のように繰り返しながら、柊吾の頭の中では同じ思考がぐるぐると渦を巻いていた。
「忘れてください」
あのとき、背を向けて逃げるように去っていった瑞樹の言葉の意味は何だったのか。
衝動的に唇を奪ってしまったことを後悔しているのか。それとも、押し倒された柊吾が拒むどころか背中に腕を回してしまったことで、気味悪がって引いてしまったのか。
どちらにしても、原因が自分にあるような気がしてならなかった。
(……淫乱だって、軽蔑されたんだろうか)
真昼間から隣室の男を思い浮かべて一人で熱に浮かされ、声をもらしながら果てようとしていたのだ。おまけに、インターホン越しに現れた相手に迫られた瞬間、驚きこそすれ、抵抗もせずに縋り付くように腕を回した。
客観的に見れば、飢え切った軽い男そのものだ。淫乱だと言われてしまえば、ぐうの音も出ない。介護士として親身になってくれていた瑞樹に対して、自分はなんて浅ましく卑しい反応を返してしまったのだろう。
(腕、回さなければよかったのかな……。でも、あのときは……)
けれど、あの瞬間、瑞樹を拒絶するという選択肢は頭のどこにも浮かばなかった。
冷たい壁に押し付けられた背中の感覚。覆い被さってきた瑞樹の圧倒的な体温と、押し当てられた唇の、少しかさついたリアルな感触。思い出したくないはずなのに、目を閉じるたび皮膚の奥がじくじくと疼き、鮮明な熱を帯びて蘇ってしまう。
(嫌じゃなかった。むしろ……もっと触れてほしかっただなんて、絶対に言えない)
そこまで考えかけて、柊吾は両手で顔を覆い、激しく頭を振った。
そんな破廉恥な思考を抱えているからこそ、現実の瑞樹の態度が余計に胸を刺すのだ。
――あのキスの後、廊下で鉢合わせたときの空気の冷たさが思い出される。
アパートの外廊下でばったり出くわした際、瑞樹はいつも通りに「おはようございます」と会釈をした。柊吾も咄嗟に「おはようございます」と返したが、交わした言葉はそれきりだった。以前なら自然に続いていた会話の糸口すら探そうとせず、互いに居心地の悪さに耐えかねたように、さっと視線を逸らして足早にすれ違ってしまったのだ。
(……最悪だ)
薄暗い部屋の畳の上、体育座りのまま柊吾は小さく呻いた。
あんなに自然に話せていたはずだった。夜のベランダ越しに他愛のない世間話をして、微かに笑い合い、張り詰めていた心がほどけていくのを感じていたのに。
たった一度の、あの熱を帯びたキスのせいで、積み上げてきた居心地のいい距離感が音を立てて崩れてしまった。
(壊したのは僕だ。昼間からあんなみっともない姿を晒して、縋り付くように腕を回した僕のせいなんだ)
じわじわと広がる自己嫌悪が、胸の奥を重く蝕んでいく。
かつて世間から身を隠し、暗闇の中に閉じこもっていた自分へ、ようやく差し込んできた温かな光。その拠り所を、自分自身の浅ましい衝動で手放してしまうのだとしたら――。
コメント
1件
柊吾の自己嫌悪が痛いほど伝わってくる回でした……。あのキスを拒めなかった自分を「♡♡♡」「浅ましい」と責める内面、でも嫌じゃなかったという本音に胸が締め付けられます。避け合う二人の距離感と、ベランダの冷えた空気の描写が切なくて、次はどうなってしまうんだろうと気になって仕方ないです。