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23時前に駅前の居酒屋通りをぶらぶら歩いた。
そういえば、優斗と同棲してからはこんな遅くに出歩いたことはほとんどない。
毎日仕事が終わったら急いで帰宅して家事をしていたから。
結婚する準備だと思ってやってきたけれど。
優斗は何も変わらず好きに飲みに行ったりしていたな。
「今さら別れるとか」
親に何と説明すればいいだろう。
父は何も言わないだろうけど、母はきっと怒るだろう。
母にとって子どもは兄だけ。
私はただの世話人だ。
いつだって兄が特別。
私が進学するときも女がいい大学に行くなんてありえないとか、就職するときも女だから事務にしろとか、あげくまだ結婚しないのかとか。
毒親と呼べるレベルなのかわからないけれど、これ以上実家にいたらノイローゼになると思い、優斗と同棲することにした。
結婚が決まったとき、父は普通におめでとうと言ってくれた。
でも母はようやく出ていってくれると安堵していた。
婚約破棄なんて言ったら、勘当されるかもしれない。
「まずは住むところを探さないと……」
ほとんど頭が働かない状態で、たまに同僚と一緒に行くバーにふらりと入った。
「いらっしゃいませ~」
いつものバーテンダーのお兄さんが笑顔で迎えてくれて、わざわざカウンター席へどうぞと手で示してくれた。
「おひとりですか?」
「はい。たまたま通りかかったらすごく飲みたくなったので」
「ありがとうございます、ご注文は何になさいますか?」
「すっごく強いお酒をください」
「かしこまりました」
バーテンダーさんはすらりと背が高く、手さばきも優雅で素晴らしい。
いつも端のほうのテーブル席でおしゃべりばかりしていたからちゃんと見たことがなかったけど、今日は見入ってしまった。
彼は脚の長い三角形のグラスに注がれたお酒を差し出して、少し低い声で言った。
「マティーニでございます」
「わっ……」
飲んだことないけど名前だけ知ってる。
初めてのお酒だからドキドキしたけど、ひと口飲んでなんだか辛いけど今の気分にはぴったりだった。
次は別のカクテルを注文し、私はテーブルの上に置いたスマホの画面をスクロールした。
見なければいいのにNoaの投稿に目を走らせてしまう。
「素敵な彼氏ですね♡」だって。
それ、私の彼氏なんだけど……。
【イケナイコトするのドキドキするよね♪】
最初は乃愛が知らずに優斗と関係を持ったのかと思ったけど、そうでもないなこれは。
匂わせすぎ。
「いいのよ別に。くれてやるわ、そんなやつ」
ぐいっと飲み干したら、ふわっとした感覚になった。
「そんなに速いペースで飲むと酔いがまわるよ」
見知らぬ男に声をかけられた。
他に席が空いているのにわざわざ私のとなりに座っている。
なるほど下心ありありですね。
「大丈夫です。お気になさらず」
そっけなく返すと意外な返答をされた。
「気になるなあ」
「はっ……?」
「こんなに綺麗な女性がこんな深夜にひとりなんて何かあったとしか思えない」
男はカウンターテーブルに肘をついて両手の指先を組んでいる。
そしてにこやかな笑顔で私のほうをじっと見ている。
ビジュアル的には最高だけど、私の【キケンシグナル】が頭の中に響きわたる。
「まあ、ありましたけど……」
「彼氏に振られたの?」
「っ……!」
振られたわけじゃない。
これから私が振ってやるつもりだ。
「だいたいこんなところでやけ酒している女性は彼氏と何かあったか、仕事で失敗したか、選択肢は限られてくるよね」
「そうですね。で、あなたはなぜおひとりでこんなところに?」
「今夜、ここに来なければならないような気がしたんだ」
はい、やばい奴認定。
まるでここにくれば運命の人と出会えるかのような言い方。
口説き方のひとつですよね。
「一緒に飲まない?」
私の【キケンシグナル】がぐっと急上昇したけれど。
「いいですよ」
簡単に陥落した。
そして私は酒の力でどんどん自らのことを暴露した。
「どうして男はセーブできないんですか? 下半身で生きてるんですかね?」
「君、相当酔ってるね」
「だってこの世は不貞する男であふれているじゃないですか」
「女にもいるよね」
「ていうか、外で他の女抱いてるくせに家でもやりたいとかサルですか。サルのほうが賢いわ!」
「ちょっと声が大きいね」
「毎日フルタイムでお前の世話をやってるのに同居したらお前の母親と祖母の面倒も見るとか私それ奴隷生活まっしぐらだよね」
「苦労してるんだね」
酔った勢いでべらべらと下品なことを口走ってしまったが、どうせ二度と会わない人だ。
これでもかと愚痴をこぼした。
カウンターテーブルの向こうではバーテンダーが笑顔を崩さない。
「わかってくれます? あなたも心得ておいたほうがいいですよ。女に働かせるなら家事もやるの当たり前なんで。令和ですからね。60代の常識なんか今は通用しませんからね」
「そうだね。心しておくよ」
私の話を聞いてもまったく動揺を見せず、明るく励ましてくれるようなこともせず、彼はただ静かに聞いている。
めずらしいタイプだ。
おそらく年上だろう。雰囲気から三十路を過ぎているくらいかなと。
優斗とは真逆のタイプだと思った。
「男の人ってみんな、付き合う前は優しい言葉をかけてくれるんですよ。釣った魚には餌をやらないの。手に入れたとたん豹変して、こっちがぼろぼろになるまでこき使われるんですよ」
カウンターテーブルの向こうの酒瓶がずらりと並んだ棚を見つめながら深いため息をつく。
すると男が私の話を遮った。
「ねえ、ごめん。ひとこといい?」
「はい、何でしょう?」
「君の男を見る目がないだけじゃない?」
にこやかな表情で穏やかにそう言われて、私は返す言葉が見つからなかった。
「そういうのに引っかかってしまったのは不運としか言いようがない。だからこそ今から軌道修正すればいいよ」
簡単に言ってくれる。
「私、婚約しちゃってるんですよ。相手とは同棲してて、別れるならこれから引っ越し先を探さなきゃいけなくて」
「とりあえず実家に戻ったら?」
「親はちょっと毒入ってるし、兄を溺愛してるから実家なんて絶対帰りたくないんです」
「そうか。うん……じゃあ、俺のマンションに来る?」
突拍子もないことを言い出した男に対し、私は目が点になった。