第8話:小さな録音虫ウタコクシ
風の届かない“風遮層”に、光が集まる一点があった。
枝葉が織り重なるその隙間に、透きとおる薄い翅(はね)を持つ小さな虫が一匹、じっと止まっていた。
その虫の名は、ウタコクシ(録音虫)。
ハネラの命令歌や光コードを記録し、必要に応じて再生する役割を持つ、
この文明において欠かせない“記憶の運び手”である。
しかし、この個体は特別だった。
見つけたのは、シエナだった。
ミント色の羽に、虹色に透ける尾羽。
光を反射する翼で枝を押さえながら、彼女は虫の前に静かに舞い降りた。
シエナが尾羽で三回、細かく光をはね返す。
それは「あなたの声を聞かせて」のサイン。
ウタコクシは、翅をかすかに振動させ、命令歌ではない音列を放った。
短く、低く、どこか震えを含んだその音は、**“記録の欠けた歌”**だった。
「……断片だ」
いつのまにか背後にいたルフォが、声を落とす。
金色の羽は朝露で濡れ、尾羽が重たげに下がっていた。
「命令の形になってない。けど、なにか……感じる。
たぶん、これは“誰かの失敗した命令歌”じゃない。
“命令でない歌”として、記録されてる」
ウタコクシは再び、同じ音を発した。
すると、近くの樹皮がかすかに揺れる。
コードではなく、音のリズムと匂いの共鳴だけで反応していた。
「おいおい、そんなの……聞いたことないぞ」
ルフォは思わず後ずさる。
都市の構造は命令歌で構成されているはずだ。
命令なしに反応するなら、都市の記憶そのものが“命令以外”の要素を含んでいることになる。
それは、ハネラ社会の根幹を揺るがす事実だった。
ウタコクシは、シエナの尾脂腺から放たれる微かな“安心の匂い”に誘われるように、
その背にふわりと乗った。
シエナの背中にとまった虫は、再び、あの断片的な旋律を奏でた。
それは命令でも、警告でも、祝福でもない。
ただ、「そこにいた誰か」の記録だった。
「この子……あんたにだけ、鳴くんだな」
ルフォが言う。
シエナは尾羽で「そうかもしれない」と返す。
ウタコクシは、もしかすると、
**歌えない者のために残された“記憶の残響”**なのかもしれない。
誰の命令も受けずに、
誰かの存在だけを残す、
小さな、小さな虫の音。
その日から、シエナの肩には、
命令を記録しないウタコクシが、静かに羽を休めるようになった。
歌えない者と、歌を記録しない虫。
彼らは、命令しないまま、世界を感じていく。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!