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さて、急いで帰ろう、と思っていると、石井奏汰という隣の部署の男に出会った。
渚のように凄いイケメンというわけではないが、爽やかで話しやすい。
「あ、お疲れ様でーす」
と言うと、
「もう帰り?
いいなあ」
と言ってくる。
「そうですか?
早く帰れるより、遅くても、ボーナスある方がいいですよ。
あいたたたですよ」
と顔をしかめて見せると奏汰は笑った。
今まで当然のようにあったものが急になくなるのは辛いからな、と思っていると、
「なんか、上司にビールかけて辞めたんだって?」
と奏汰は笑う。
また広まってるな、と顔をしかめた。
何処のどいつだ、言って歩いてるのは。
「セクハラ?」
と訊いてくるので、
「違います。
彼は……私に絶対に言ってはならない一言を言ったんですよ」
と言うと、
「な、なんか怖いよ、秋津さん」
と怯えたように言ってくる。
「あ、そうだ。
さっき、社食に渚とかいう社員の人が居て、お金借りちゃったんですけど。
あの人、何処の部署の人なんですかね?」
「知らないの? 総務~」
と言ってくるが、来たばかりの派遣社員だからな、と思っていた。
「渚ねえ?
そんな名前の奴居たっけ?」
変わった名前だから印象に残りそうだが、まあ、こんな大きな会社だからな。
「どんな奴?」
と問われたので、うーん、と考え、
「……私の好みじゃないんですけど。
なんか凄いイケメンですよ」
と言うと、
「好みじゃないんですけどって、なに?」
と苦笑いしながらも、
「そんな奴だったら、知ってると思うけどねー」
と言っていた。
「その人、この間は駐車場で煙草吸ってたんですけどね」
「ああ、今、何処も禁煙禁煙うるさいからね。
でも、よく知らない男にお金借りない方がいいよ。
借金のカタに買われちゃったらどうするの?」
「……160円ですよ?」
と言いながらも、まあ、子供は産まされそうになりましたけどね、160円で、とは思っていた。
「ふーん。
でも、そのイケメン、秋津さんの好みじゃないんだ?
そりゃあよかった」
となにがよかったのか、そう言ってくる。
「じゃあねー」
と手を振り、奏汰は忙しげに行ってしまった。
なんだかわからないが、アイスが溶けてしまうな、と思い、ロビーで食べて帰ろうと急ぎ足で行こうとすると、誰かが呼び止めてきた。
「あら、秋津さん、もうお帰り?」
うわっ、出たっ。
隣の部署の、まあ、綺麗と言えば、綺麗かなーという感じの服部真知子とかいう女性社員だ。
引き継ぎをしてくれた前の派遣の人が、
『あの人、ちょっと気をつけて』
と言っていたが、なにを気をつけてなのか、すぐにわかった。
なんだかわからないが、とりあえず、誰にでも攻撃的だ。
自分と自分のご機嫌を取る人以外、みな敵、みたいな。
「ねえ、秋津さん。
今、石井さんと話してなかった?」
とさりげない感じを装い、訊いてくる。
「話してましたよ?」
と言うと、顔をしかめる。
……ご機嫌斜めになったらしい。
突然、なんの脈絡もなく、私のお茶の出し方がどうのこうのと文句をつけてきた。
何処にでも居るよな、こういう人、と思いながら、はいはい、と長い説教の間、返事をしつつも、心を遠くに飛ばしていた。
「ちょっと、秋津さんっ、聞いてるっ?」
と言われ、勘がいいな、と思いながら、
「はい?」
と言うと、諦めたように、
「……もういいわ」
と言ってきた。
そして、手許のアイスを見、
「あっ、あんたなにやってんのよ。
アイス、溶けてるわよ」
と言ってくる。
「あーっ。
ほんとだっ!」
とへにょへにょになっているアイスが包まれた紙を見た蓮は、思わず、
「なんてことしてくれたんですかーっ」
と真知子に向かい、叫んでいた。
いきなり怒鳴られ、ええっ? と真知子が言う。
そりゃそうだ……。
だが、謎の男に金まで借りて買ったのにっ、と心の中で嘆いていると、真知子はさすがに哀れに思ったのか。
「いや、……あのさ、私と出会ったとき、それ、もう溶けかけてたわよね」
と一応、反論したあとで、
「それ、名前書いて給湯室の冷凍庫にでも入れときなさいよ。
ああ、名前書いとかないと誰かが食べるわよっ」
と親切に教えてくれる。
「あ、ありがとうございます~っ」
と感謝していると、
「はあ……。
もう、わかったわかった。
じゃあね」
とまだ帰れないらしい真知子はなにかを諦めたように言って、行ってしまった。
意外といい人だ、と思いながら、素直に給湯室に戻る。
アイスを凍らせたあとで、ちょっと社食の前を通ってみたが、もう渚は居なかった。
あの人、此処でアイス食べて帰ったのかな。
あのそんなもの食べそうにない外見で、高校生とかが好んで買うようなアイスをひとりで食べてたのかと思うと、なんだかちょっと笑ってしまった。
「ああ、疲れた。
ただいまー」
とマンションの鍵を開けて入ると、煮物のいい匂いがした。
「あ、お帰り」
と男の声がする。
いや、だから、なんで居るんだ、と思いながら、リビングに行くと、テレビの前の小さなテーブルに一人分のご飯が並んでいた。
相変わらず、美味しそうだ。
「お帰り。
そろそろ帰るかと思って、あっためておいたから食べて」
とキッチンから顔を出したのは、古田未来という大学生だ。
いまどき茶髪の如何にもな大学生だ。
「……また、持ってけって頼まれたの?」
うん、そう、と彼は言う。
「おばさんが持ってって。
まあ、ついでがあったからね」
彼は昔から、実家の近くに住んでいるのだ。
懐かしいいい匂いがするな、この大根の煮物、と思いながら、
「ありがとう。
でも、いいのに。
わざわざめんどくさいでしょ?」
と言ったが、
「いいよ。
この近くのカラオケで友達と待ち合わせてるし。
それに、おばさんに頼まれてるんだ。
男の影でもあったら報告してって」
と笑って言ってくる。
とりあえずなさそう、と余計な言葉も付け足して。
「ありませんけど、なにか?」
とつい、喧嘩腰に言ってしまう。
「じゃ、鍵、おばさんに返しとくから心配しないで。
僕に持ってて欲しいんなら、コピー作るけど?」
と笑って言ってくる。
……結構です。
未来は、じゃあ、とさっさと帰ってしまった。
今日はなんだかなー。
そういえば、アイス食べそびれたし、と思いながら、ご飯を食べ、テレビを見ながら、うとうととする。
未来、ご飯持ってきてくれるより、一緒に食べてくれる方がいいのにな、とぼんやり思った。
一人暮らし、したくてしてるんだけど、やっぱりちょっと寂しいな。
そう思ったとき、ふっと駐車場で煙草を吸っていた男を思い出した。
『お前、俺の子を産んでみるか?』
いやいやいや。
幾らひとりが嫌だからって、いきなり知らない人に子供を産めとか言われても。
でも……
子供かあ。
ちょっと欲しいかな。
あの渚とかいう人の子供なら、きっと綺麗な顔した子供が産まれるだろう。
頭も良さそうだし、と思ったあとで、いやいやいや、と思う。
これじゃ、
『いい遺伝子だ』
とか言う渚と一緒の発想だよ、と思ったからだ。
ロクなもんじゃないな、あの男、と思いながら、一人暮らしの気楽さで、そのまま寝てしまった。