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番外編 【新田は書店で気づかれないように立ち止まる】第一話
新刊の配本日というのは、編集者にとって少し特別な日だ。
何百回経験しても、慣れきることはない。
印刷所から刷り上がった本が倉庫へ運ばれ、取次を通って書店へ並ぶ。営業が数字を見て、宣伝が動きを追い、編集者は何食わぬ顔で平静を装う。だが内心では、誰もが少しだけ落ち着かない。
自分が関わった本が、この世のどこかの棚に、本当に置かれる。
その事実は、思っている以上に生々しい。
朝から新田は、やけに落ち着かなかった。
メールを開く。
営業からの簡単な配本報告が来ている。主要書店にはひととおり入っているらしい。初速としては悪くない。とはいえ、配本されたことと売れることの間には、広くて冷たい川が一本ある。そこを渡り切れる本は多くない。
デスクの上に置いた見本誌を、彼はちらりと見た。
『猫は原稿を読まない』
白地に、少し気だるげな灰白ぶち猫のイラスト。くどすぎない装丁だった。最初の案はもっと可愛らしすぎて、新田が却下した。「この本は猫の本に見せかけた生活敗戦記です」と会議で言ったら、デザイナーに微妙な顔をされた。間違ってはいないと思っている。
「新田さん、行くんですか」
隣の席の瀬尾が、ニヤニヤしながら言った。
「何がです」
「書店」
「行きません」
「その顔で?」
「どんな顔ですか」
「子どもの発表会を見に行く父親みたいな顔です」
新田は無言で資料を閉じた。
「営業資料、届けに行くだけです」
「はいはい」
「ついでに近くの書店に寄るだけです」
「はいはい」
「こっそりです」
「そこは認めるんだ」
新田は返事をしなかった。
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