「さて、珈琲でも飲みますか」
ハッと我に帰った。惣一郎はキッチンに立つと峠下の町で購入した珈琲豆をミルで挽き始めた。
「いい匂い」
「珈琲は豆から淹れた方が美味しいです」
「インスタントコーヒーじゃ駄目なの」
「仮の姿の私はインスタントコーヒーで十分ですが本当の私はこれ一択ですね」
私が昼間の井浦教授と夜の惣一郎が別人だと話したら「それは面白い表現ですね」と気に入ったらしい。そして本当の姿の惣一郎は「夜の私を知っている学生は七瀬だけですよ」と耳元で熱く囁やいた。
「七瀬」
「はい」
珈琲ドリップの準備を済ませた惣一郎は手を洗いながら振り返った。
「七瀬、私は画材道具を整理して来ます。食べ物を冷蔵庫に片付けておいて下さい。ビールは落とさないで下さいね」
「はい、分かりました」
冷蔵庫の扉を開けると心地の良い冷気が首筋を撫でて通り過ぎた。リビングテーブルにはLLサイズのポリエチレン袋が三個、三泊四日分の大量の食材が冷蔵庫に入り切るのかと思ったがそんな心配は無用だった。
「ーーー大きい」
この冷蔵庫は一人用にしては容量が多い。多分に私を連れて来たように油画の生徒を招き入れる事があるのかもしれない。冷凍庫にひき肉を詰めているとカーテンがはためき視界の端に気配を感じた。
(ーーーあれ?)
木枠の窓の外、胡桃の樹の下に白い日傘を差しハーフアップに結えた黒髪、大島紬の着物の細身の女性が立っていた。
(近所の人かな)
冷蔵庫に全てを詰め終え振り返るとそこに女性の姿はなかった。
「七瀬!」
「はい」
「珈琲出来たかな」
「あともう少しみたいです」
「分かった、座って待っていて」
「はい」
私は一滴、一滴と落ちる珈琲を眺めた。
「動かないでくださいね」
珈琲で休憩した後、私には苦行が待っていた。
(オレンジジュース一本が賄賂とは、解せぬ)
この三泊四日の小旅行は井浦教授の画絵のモデルとして随行したものであって恋人同士の甘いものではない。背もたれのない椅子に座らされた私は惣一郎に背中を向け斜め45度で後ろを振り向くように指示された。
「そ、惣一郎、これは無理」
「まだ5分しか経っていませんよ」
「早く、早く描いて」
「ウェストが細くなりますよ、良かったですね」
「そ、そうですか」
キャンバスに向かい木炭で指先を黒くした惣一郎は黄色の顔料を木製パレットに絞り出しテレピンオイルで溶いた。
「も、もう良いですか」
「あぁ、もう少しの辛抱です」
「もう絵の具で塗っているじゃないですか」
ベージュのチノパン、白いTシャツ、顔料で汚れたエプロンを身に着けた惣一郎は筆を握った。
「これはね、下書きなんですよ」
「絵の具が下書きなんですか」
「木炭で予め線を引いて黄色の絵具でなぞっておけば油絵具を重ねても下絵が消える事はありませんからね」
「そ、そうなんですか」
「あぁ、ほら動かないで下さい」
「もう良いですよね」
「辛抱出来ないんですか、オレンジジュース返して下さい」
「も、もう無理です」
ジュウウウ
「い、痛い」
「七瀬、あれしきで音を上げていては座ったポーズは無理ですね」
「正面なら耐えられます」
「小学生の図画工作じゃないんですよ」
「そうですが」
私はリビングのソファに突っ伏して凝り固まった腰を撫でていた。耳を澄ませると冷蔵庫の扉が閉まりコンコンと叩きつける音。
「ーーー卵」
ボウルに割り落とされた卵が菜箸でリズミカルに溶かれ、続いてフライパンがガスコンロに乗せられた。
ジュワワワワ
「ーーー美味しい匂いがします」
「起きて下さい、オムライスが出来ますよ」
「オムライス!オムレツじゃなくてオムライス!」
「ケチャップライスは冷凍ですが、ほら、お皿を出して下さい」
「はーい!」
食器棚を開けると二客のコーヒーカップ、マグカップ、ワイングラス、二枚の平皿、小皿、二個のサラダボウルが入っていた。
(ーーー全部、二個)
それは何処か違和感を感じさせたがそれを考えるより先に私は平皿に盛り付けられたオムライスの湯気でご機嫌になっていた。
「七瀬、ちょっと目を瞑って下さい」
「なんですか」
「良いから、早く閉じて下さい」
私はスプーンを手に、バターの匂いに鼻先をひくひくさせた。
「はい」
冷蔵庫の扉がバタンと閉まる音、なにかを開ける音。
ブチュ
(ーーーぶ、ぶちゅ?)
「はい、目を開けても良いですよ」
「はい」
恐る恐る片目を開けると黄色いオムライスの上に井浦教授の作品が仕上がっていた。
「これは、昼間の井浦教授の作品ですか?」
「本当の私の気持ちですよ」
私たちはテーブルを挟んで軽いキスを交わした。オムライスの上には赤いケチャップで真っ赤なハートと I LOVE YOU の文字が並んでいた。
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