テラーノベル
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扉の外には夏の終わりの光が滲んでいた。窓のガラス越しに照らされた遥の輪郭は、ほとんど影だった。
「──何か、言えよ」
沈黙を破ったのは日下部だった。
声は静かだったが、間違いなく苛立っていた。
遥は、スニーカーのつま先を見つめたまま微動だにしない。
蓮司と関わるようになってから、何度もこうして日下部に話しかけられてきた。
でも、いつも拒絶してきた。
「……別に、言うことないし」
自分の意志というより、感覚に任せた返事だった。
「そうかよ」
日下部が壁に背を預けた。
その目が、わずかに揺れていたのを遥は感じた。
「──あんなやつと、本気で付き合ってんのか?」
唐突な問いだった。
遥は笑うでもなく、頷くでもなく、小さく目を閉じた。
それだけで、答えになった。
「……やっぱ嘘なんだな」
「なんで」
「おまえ、演技下手だし」
遥は口を開きかけて──やめた。
言葉が、重くて出てこなかった。
「……それに」
日下部は視線を逸らさずに言う。
「おまえ、誰かに触られる時、少しだけ歯を食いしばるクセある」
遥ははっとした。
それを知ってるのは──
「……見てた?」
「知ってるだけ」
日下部の目が細くなる。
「おまえが“壊れてる”って言ってたのも知ってる。誰にも頼らず、誰にも期待せず、自分から全部壊してきたのも。──けど、それで、本当におまえ守れてんのか?」
遥は首を振った。
問いに答えたんじゃない。
自分の中の“声”を、否定したかっただけだ。
「関係ねぇだろ」
「関係ある」
日下部の言葉は鋭く、でもどこか、痛かった。
「……あの時、俺んち来たときの、おまえの顔──俺、一生忘れねぇから」
遥は、凍ったように立ち尽くした。
その話題は、決して触れてほしくなかった。
「“なにもしなかった”ことが怖いんだろ」
日下部が言った。
低く、優しくはなかった。でも、正直だった。
「ずっと、何かされるのが当たり前だったんだもんな。されないってことが──異常だったんだよな」
遥の喉が鳴った。
何か言いたかった。でも、言葉が出ない。
「でもな──俺は、したくなかったんだよ。壊れてる奴を、さらに壊すみたいなこと」
その言葉が、遥の胸に突き刺さった。
“壊れてる”
“さらに壊す”
(……もう、壊れてたよ)
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。言葉にした瞬間、ほんとうに「壊れてた」と認めてしまいそうで。
「……なんで、今さらそんなこと言うんだよ」
遥が搾り出すように言った。
「俺、どうでもいいだろ、おまえにとっては」
「どうでもよくなりたいけど、どうしても気になるんだよ」
日下部のその一言が、遥の足元を崩した。
──どうしても気になる
誰かに、そんなふうに言われたのは、いつぶりだったか。
いや、そんなふうに言われたことなんて、人生で一度もなかったかもしれない。
蓮司は言わなかった。
沙耶香も、晃司も、玲央菜も、颯馬も──誰も、「気になる」なんて言わなかった。
ただ、壊れる様を見て笑い、叩き、嘲り、犯しただけだった。
なのに──
遥の中で、何かが動いた。
否応なく、「考える」という行為が始まってしまった。
日下部に何を思うのか。
蓮司との関係は何なのか。
自分が、これまで何を期待してきたのか。
なぜ、生きてきたのか。
なぜ、壊れてない“ふり”をしていたのか。
(考えたら、壊れるのに)
でも、もう止まらなかった。
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