夜が怖くなったのは、いつからだっただろう。
喉の奥が痛む。熱い。
言葉にならない息が、何度もからだの内側から突き上げてくる。
そして、ひとひら、またひとひら――花がこぼれる。
「……ごほっ……ぅ、あ……」
洗面台に倒れ込むようにして、口元を手で覆う。
掌に残ったのは、淡い白に薄紅の縁取りがある小さな花。
吐き出すたび、息が浅くなっていく。
(だめだ……これ以上、すちに見られたら)
彼は優しい。
優しすぎるくらいに、まっすぐで、温かくて。
ほんの少しでも期待してしまいそうになるから怖い。
もし、すちが自分を「そういう目」で見てくれていたら。
もし、あの人の腕に飛び込めたら。
この花は、消えてくれるかもしれない――
でも、そんなの都合のいい夢だ。
すちは、あんなに優しいけれど、俺の気持ちには気づいていない。
たぶんずっと“かわいい弟分”みたいにしか思っていないんだ。
(このまま一緒にいたら……いつか、もっと苦しくなる)
みことは、決意するように目を閉じた。
___
朝、窓を開けると春の風が部屋を撫でた。
吐き出すたびに色を変えていく花が、窓辺の小皿にそっと積み重ねられている。
(あと、どれくらい……)
目の前がかすむ。
身体が重い。
夜も眠れない。
食事も、喉を通らなくなってきた。
「……もう限界かもしれない」
昨日、すちに引っ越す話をしたとき、本当は心がぐちゃぐちゃだった。
「行かないで」って、言ってほしかった。
すちの口から、自分の名前を、愛しさをこめて呼んでほしかった。
でも――
現実は違った。
すちは、ただ、心配そうに見つめるだけだった。
(ちゃんと隠せてた……よね)
そう自分に言い聞かせながら、ふと、鏡を見る。
唇の端から、血のにじんだ花びらが、するりと落ちた。
「……うそ……」
それは、これまでよりも濃く、深く、赤い花。
まるで、心臓から直接咲いたみたいに、鮮やかな色だった。
___
「みこと」
後ろから、名前を呼ばれる。
肩がびくっと跳ねた。
すちが、そこに立っていた。
真っ直ぐな目で、自分を見つめている。
その手には――
「……これ、みことの、だよね?」
掌にのせられていたのは、さっき吐いたばかりの赤い花びら。
みことの全身から、音もなく血の気が引いていった。
「見たんだ、さっき。……みこちゃんが、咳き込んでるのも、その花を吐いてるのも」
もう、隠せない。
逃げようとしていたすべてが、すちの優しい声に縫い止められてしまった。
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