コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ビットは昨夜考えが煮詰まった後に一人城を抜け、街へと出かけていった。
深夜ではあったが、いくつかの店の明かりはついたままで、ビットは適当に一軒を選んで、中に入った。
いや適当、というのは正しくない。ビットは、最も騒がしい酒場を選んで入った。
大きくも小さくもない、年月を相応に刻んだ店だった。
ビットがドアを押すと、軋んだ音を立てて中へと誘われる。
外観と同じく年代物の店内は薄暗く、街の灯が落ちている時間にも関わらず、人で溢れていた。
客の視線が、一斉にビットへと注がれる。そのどれにも反応することなく、ビットはカウンターに硬貨を置いた。
「エールを」
注文すると、すぐに失笑が漏れる。
背の低いビットを馬鹿にしてか、ママのおっぱいでも飲んでな、といった相手にする気すら起きない雑言が聞こえてきた。
すべてを無視して、ビットはマスターに向けて、口を開く。
「この町の治安は、どんなものです?」
その言葉に、カウンターでグラスを磨く主人は苦笑を返した。
「お客さん、旅の人かい? こんな時間に一人で酒場に来て、治安を気にしてどうするんだ」
ビットは内心でほくそ笑んだ。
乗ってきた。一度でもこちらが聞いていない、自分の意見を口にさせれば会話の掴みは成功である。
後は上手く、聞きたいことにつなげていけばいい。
エールを味わいながら、マスターから情報を引き出していく。
以前フリッツと聞き込みをしていた時には得られなかった情報が、簡単に手に入る。
この店は、当たりらしい。
そう判断して、そういえば、とビットは切り出す。
「シウムという人を見ました」
その言葉に、数人分の視線が強くなった。
それを敏感に察し、それでも無視して、ビットは続ける。
「どういう方ですかね? ずいぶん……」
「シウムさんの何を、嗅ぎまわってるんだ?」
とうとう直接声がかかった。ビットは笑みを押し殺して、振り向く。
そこには、大柄な男が三人立っていた。
「うろちょろすると、怪我じゃすまねえぞ?」
「……何かご存じのようですね」
睨みつける男たちに対して、ビットは笑みで応じる。
ただし、それは微笑というものではない。それは、獲物を見つけたという、獰猛な笑みであった。
喧騒溢れる酒場に、ガラスが砕ける音が響く。
混乱の坩堝と化した店内からは、我先にと客が逃げ出していく。
客がいなくなり、店内が静まりかえる頃には、男は三人とも床に倒れていた。
かろうじて、意識は失っていない。
「てめ……げぼっ!」
憎々しげに悪態を吐きながら起き上がろうとする男の鳩尾を容赦なく踏みつけ、ビットは静かに口を開いた。
「知っている事を話して下さい」
「誰……があああああああああっ!」
ビットはさらにつま先をねじ込むように腹部へと突き立てる。男の言葉は、途中で絶叫に変わった。
激痛を与え、しかし意識を失うことを許さない。
酷薄な笑みを浮かべたまま、ビットはつまらなさそうに言う。
「素直になった方がいいですよ。今日の私は、あまり機嫌がよくありません」
そのまま、男の絶叫を無視して思い浮かべるのは、あの姿――ベッドに横たわり、悔しさに歯噛みする、主人の姿だった。
「まあ、話さないのならそれでもいいですよ。そのうち、嫌でも話したくなります」
ビットはゆっくりと、男の手を掴んだ。
流れるような動作で、親指をはさむ。
次の瞬間には、べりっ、と軽い音を立てて男の爪が剥がれた。
「ぎいやああああああああああああああ!」
男の絶叫が酒場に響くが、助けが来ようはずもなかった。
「口を開くなら、私が聞きたい話をして下さい」
血の滴る指先に、蒸留酒をかけていく。
男の絶叫が、また響いた。
酒場を出て、ビットは男の言葉を思い出しながら、歩いていた。
『シウムさんは五年ほど前に旅に出たんだ。必ず俺たちの時代が来るから、待てと』
男は忠実にその言葉を守り、探りを入れるビットから逆に情報を得ようとしたらしい。
男が嘘をついているとは思えなかった。
散々痛めつけ、話させてください、と言うまで追い込んだのだ。それは考えにくい。
だが、男の言葉が真実だとすると、疑問が浮かんでくる。
――今城にいる、シウムと名乗る男は誰なのか?
――クリスやテオドアにも疑われず、しかも慕われていたはずのごろつきたちとも接触してない。そんなことが、可能なのか?
その疑問は、一つの答えを導き出す。
それは、すなわち――
「まあいいでしょう。判断はアリシアさんに任せましょう」
呟くビットの表情からは、諦念とか、依存とかいった負の要素は見えない。
アリシアに判断を委ねる、というのはビットの昔からの基本方針でしかない。
判断も決断も委ねるが、ビットは決して愚鈍な人間ではない。
彼女の進む道の長所短所を理解し、評価し、支持した上で、彼はただ備えをする。
アリシアの道にある障害を取り除き。
彼女が真っ直ぐ進んでいけるように。
街の一角、ごろつきたちが寝泊まりしていると噂される建物が、空が白み始める前に消えたことは、ほとんど知られていない。
「以上です」
あくまでも淡々と、ビットは報告を終えた。
アリシアが眼を閉じて考えている間に、フリッツはこっそりと震えた。
つまり、ビットは怒らせない方がいいということを、魂に刻み込んだ。
ちらり、と見るとクリスも笑みを浮かべてはいるものの、明らかに引きつっていた。
「結論は出たわね」
そんな二人をよそに、アリシアが眼を開け、言う。
「え?」
フリッツが思わず疑問の声を上げたが、アリシアは無視した。
「聞いているのでしょう?」
代わりに、この場の誰にも向けない言葉を放つ。
「聞こえています。もう少し、痛みつけておくべきでしたか」
何もない空間から、返事が聞こえた。
それは、昨日間違いなく世界を同じように見ていた男の声。
フリッツは、やはり、という想いと信じたくなかったという想い、二つの矛盾する想いが同時に浮かぶのを感じた。
そうして、彼が吐くのはいつもの諦念の溜息。
それを吹き飛ばすのは、いつだって彼の主人だった。
「どれだけ痛めつけても無駄よ。わたしたちを止めたいのなら、本気でそう思うのなら――殺すしかないわ」
姿を見せないシウムに――完膚無きにまで叩きのめされた相手に――恐れをかけらも見せず、アリシアが啖呵をきる。
その気迫に呑まれたかのように、シウムはすぐに答えてこなかった。
わずかの間をおいて、再び声が響く。
「……いいでしょう。姫の御前で、決着といきましょう」
「望むところよ」
即座に応じたアリシアに、次の言葉は来なかった。
しばらく空中を睨み続けたアリシアは、やがてふん、と息を一つ吐いた。
「さて、行くわよ」
「えーと、つまりどういうことですか?」
すっかりとやる気を全開にしたアリシアに、フリッツがおずおずと尋ねると、アリシアはこめかみに青筋を浮かべた。
「フリッツ……本気でわからないの?」
「?? わかっていないから聞いているんですが?」
冗談でも何でもなくわからないため、素直にそう返したフリッツは、盛大に溜息を吐かれた。
「あんたね……」
「今のシウムは偽物です。間違いなく、夢魔本人が入れ替わっています」
ビットが珍しくアリシアの説明を遮って、答えを口にした。
「ええっ!」
驚きの声を上げるフリッツを無視して、ビットは部屋の壁を背にして、腰を落とす。
そのまま、両手を額の高さまで持ち上げる。
「わかったら急いでください。アリシアさんも」
「ビットさん……」
その言葉に、フリッツは彼の覚悟を感じた。名前を読んだだけなのに、しっかりとした頷きが返ってくる。
「フリッツ。わかっていますね?」
言葉の意味を正しく理解したフリッツにできる返事は、一つだけだった。
「はい。任せてください」
「ビット?」
頷き合う男二人に、アリシアが疑問の言葉を投げる。
「アリシアさん、先に行ってください。私は、招かれざる客を止めることになりました」
言葉を待っていたかのように、あるいは嬲るかのように、爆発的な殺気が、部屋に満ちる。
ぞぞぞぞぞ、と音すら立てて、部屋の影が集まり、黒い塊を作っていく。
「っ! そういうことね! 任せたわよ!」
「お任せ下さい」
フリッツですら緊張を隠せない量の殺気を前に、ビットはあくまでも軽く請け負った。
「すぐに追いかけます」
殺気が物理的な衝撃を伴い、部屋のガラスがすべて、音を立てて粉々になる。
「行くわよ! フリッツ! クリス!」
「はいっ!」
「は……はいっ!」
そこから逃れるように、アリシアの声に合わせ、三人は部屋を飛び出した。
三人を見送るように、ドアが音を立てて閉まる。
「やれやれ、私だけをまず潰すつもりですか?」
「各個撃破、というのは有用な戦術だろう?」
聞こえてきた声は、シウムとは別の、もっと地の底から響くような声だった。
それに、ビットは冷たい声で応じる。
「それは、各個撃破の戦力があれば、の話でしょう?」
「ずいぶんな自信だな」
嘲りを含む声に、ビットは揺るがず、笑みすら浮かべて見せた。
「それはそうですよ。荒事担当はフリッツですが、今も昔も――」
ビットの右手に、黒い闇が宿る。
「アリシアさんを護り、歩きたい方向へと道を整えるのは、私の役目ですから」
部屋の闇は今や、人に似た形をとっていた。
それに比べて、あまりにも小さな闇を手に、ビットは誇りと共に答える。
「私を、甘く見ないでくださいね」
凝り固まった闇に向けて、右手の闇を放つ。
「闇を持って闇を喰らう! 吸魔の闇!」