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ビットが放った小さな闇の塊は、人の姿を取った闇の胸へと吸い込まれていった。
音もなく同化し、そして弾ける。
落雷にも似た音が響き、闇の胸から左肩を吹き飛ばす。
「ほう……なかなかやるな。この闇人(やみのひと)に傷をつけるとは」
闇人の唇からではないところから響く声が、ビットを賞賛する。
――隠すつもりもない嘲りを含んで。
「だが、小さなものだ」
左腕と首から闇が触手のように伸び、互いを繋ぎ合わせる。
欠損した部分は、一瞬で元に戻ってしまった。
その事実にビットは舌打ちして、今度は直接飛びかかる。
小さな身体を更に沈め、相手の腿を狙っての肘打ち。完璧な状態で、入った。
そのまま、回転しながらもう一方の肘を同じ位置へと叩きこむ。これもまた、入った。
人間であればその場で崩れおちるような連撃だが、しかし闇人は微動だにしない。
「闇を喰らいて広がれ!」
「それはもう見た」
ビットが再び右手に黒い光を生み出し、闇人にぶつけるよりもはやく、闇人の右腕が錐のような鋭さを持って伸び、ビットへと襲いかかった。
ビットは即座に魔法を中断し、横へと転がって一撃をやり過ごす。それは見事な判断だった。
ただ、闇人の攻撃は止まらなかった。左右の腕を突き出してくるだけではあったが、その動きは早く、どこまでも伸びるかの様に、追ってくる。
気がつけば、ビットは闇人からかなりの距離を取っていた。
「さっきまでの威勢はどうした?」
余裕と嘲りをたっぷりと含んだ声にも、答える余裕がない。
ビットは意識を闇人に集中しながら、フリッツの姿を思い浮かべる。
どうすれば、彼のようにこんな化け物を相手に対等以上に戦えるというのか。
そう思うと、苦笑すら浮かんでくる。
どうあっても、ビットは対等以上には戦えない。彼の技術は、人相手でこそ活きるものであり、フリッツのようにそういった事を無視した、巨大な力では、断じてない。
それでも――なさなければならない。
この闇人を倒し、アリシアの元へ駆けつけなければならない。
それこそが、ビットが歩く意味。
世界を渡り歩く意味は、アリシアと共に、という言葉がついて初めて意味をなす。
ここで一人、足踏みする暇はない。
「さて、どうしますか……」
闇人の動きを慎重に観察しながら、ビットは探る。
突破するための、方策を。
城の外れにある塔の最上階。エリス=シルフェリアの眠る部屋。
衛兵たちを押しのけて、フリッツがドアを蹴り開けた。
バアン、と大きな音が響くが、やはりベッドで眠るエリスは身じろぎひとつしない。
「ようこそ」
代わりに反応したのは、抜き身の長剣をぶら下げた、シウムだった。
相変わらずの柔らかな笑みを浮かべ、フリッツ達全体を見るような視線を向けてくる。
その視線の運び方だけで、やはり気の抜けない相手である、とフリッツは判断した。
荒事担当、と言われている。そうでなくても、自分以外に対抗できる人間はいない。
「展開せよ!」
だから当然のように、腕輪を棍へと変じ、シウムと対峙するためにアリシアの前へと出ようとする。
「無用よ」
しかし、それは他ならぬアリシアによって止められた。
何故ですか? とフリッツが尋ねるよりも早く、アリシアが視線をシウムに注いだまま、説明する。
「フリッツ、あなたは温存するわ」
「え?」
「それに、言ったはずよ」
フリッツの言葉になっていない疑問に答えず、アリシアはただ宣言する。
「シウムへの借りは、わたしが返す、とね」
ゆっくりと踏みしめるようにアリシアが一歩前へ出る。
荒事を任されたフリッツよりも、護るべき会長であるアリシアが前に出る。
それは、普段は有り得ない、あってはならない光景だった。
それでも、アリシアは至極当然のように『あってはならない』を踏み越える。
「あなたに、できますか?」
迎えるシウムは、余裕の笑みを崩さない。
アリシアも、笑みと共に応じる。その瞳に、決然とした意志をのせて。
「できるかどうか、という段階じゃないのよ、もう」
左足をわずかに上げ、構えを取る。
「やるのよ」
その上げた左足を、再び地面に下ろし、ダンッ! と音を立てて、アリシアが一歩、シウムに向けて跳んだ。
「無駄ですよ」
シウムは軽く剣を掲げ、アリシアを迎える体勢をとる。
アリシアはまっすぐにシウムを目指しながら、声を上げる。
「フリッツ! エリスを棍で狙いなさい!」
突拍子もないその指示に、困惑しながらもフリッツは頷き、即座に動く。
「なっ!」
初めて、シウムの顔に焦りが浮かんだ。
シウムの意識が、走るフリッツへと向けられる。
それを見逃すアリシアではなかった。中段の回し蹴りが、的確にシウムを捉え――そして、すり抜ける。
クリスが驚愕に眼を見開く中、アリシアは驚いた様子もなく、むしろ満足そうに笑みを深くする。
「やっぱり、虚像ね」
その言葉に一拍遅れて、フリッツが棍を繰り出す。
しかし、エリスに届くことなく、見えない壁に阻まれたように、弾かれた。
「そして、本体はあちらね」
「……」
アリシアの言葉に、シウムは答えない。
「あなたを人間だと思っていたから、謎だった。けれど、夢魔であるとすれば、その疑問はすべて解ける」
フリッツは油断なく棍を構えながら、アリシアの言葉の続きを待つ。
「夢魔が理由なく剣を振り回すはずがない。そうせざるを得なかった。なぜなら、あなたのその姿は虚像でしかない。だから、それを悟らせずに相手を倒すにはその剣を使うしかない。けれど虚像だから、気配もない」
クリスは顔を青くしながらも眼を逸らさずにアリシアとシウムを見つめる。
アリシアは眼前のシウムにではなく、エリスへと視線を移した。
「でてきなさい。叩きのめしてあげるから」
アリシアの言葉に、シウムは溜息を吐いた。
「……やれやれ。どうしてあなた達みたいな人間が、来てしまったのでしょうね」
言葉とともに、気配が膨れ上がる。
――それは人では有り得ない、巨大な気配だった。
膨れ上がる殺気、などという単純なものではなく、存在そのものが、巨大。
「気づかなければ、緩やかに堕ち、けれど絶望することなく、時を過ごしていけたのに」
外見はまったく変わらない。それでも、そのすべてが違う。
夢魔シウムは、その姿を現した。
「仕方ありません。あなたたちを、ここで始末します」
剣を投げ捨てたシウムの爪が、長く伸びた。
「護りの力を、わたしに」
呟いたアリシアの身体を、白い光が覆う。
そして二人は、同時に動いた。
柔らかい絨毯が引かれているはずなのに、大きな音を立てて、突進した二人が、交錯する。
シウムの右爪を、アリシアは内側に入り込んでかわす。そのまま、膝を腿に叩き込むが、セシウムはわずかも表情を変えない。
アリシアが一度間合いを外そうと、わずかに後ろへ引く。
そこで、シウムが加速した。アリシアに間合いを外させないように追い、左右の爪を上下から、顎のように振るう。
「このっ……!」
避けることが間に合わず、やむなくアリシアは両手で防ごうとする。
「アリシアさん!」
それでも、夢魔であるシウムの力を素手で防ぐことなどできない。クリスはそう考えたのか、切羽詰まった叫びを上げる。
フリッツも同感だった。アリシアは判断を誤った。そう思った。
だが、シウムの爪は、アリシアの腕を傷つけることができなかった。
それは、アリシアを覆う、白い光を、削っただけだった。
「かかったわね」
驚愕に眼を見開くシウムを下から睨みつけて、アリシアは笑みを浮かべた。
「天破脚!」
一度身体を沈みこませてからの、伸び上がるような上段への蹴り上げ。天を破ると名付けられたその技は、狙いを過たず、シウムの顎を捉えた。
完全に宙に浮いて、死に体となったその身体に、容赦なく追撃の回し蹴りが叩きこまれる。派手に吹き飛んだシウムは、煉瓦造りの壁に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
それでも、歯を食いしばりながら、彼は起き上がる。アリシアも油断なく、シウムの挙動に注目する。
しかし、シウムは反撃をするよりも疑問を優先したらしい。動きらしい動きを見せずに、ただアリシアに問いかける。
「何故です? 昨日はここまで強くなかったでしょう?」
そのあまりといえば、あまりな疑問に、アリシアは苦笑した。
「昨日のあなたは気配がなかった。だから捉えられなかった。けれど、今日のあなたは充分過ぎるほど気配がある。どれだけ早くても、それならわたしは捉えられるわよ。あんまりなめないでくれるかしら?」
その言葉に、シウムは溜息を吐いた。
「そうですか……私はこれでも、無闇に力をばら撒くのは好きではないのですが、仕方ありませんね」
言葉と共に、シウムの中に魔力が膨れ上がるのを、フリッツは確かに感じた。
「まずいっ!」
フリッツは思わず叫び、シウムへと跳びかかるが、間に合わない。
音のない衝撃波が、部屋全体を蹂躙する。
「はああああああああああっ!」
ぐるり、と片手で棍を回し、金色の盾の軌跡を描く。神器はその名に相応しく、魔力で産み出された衝撃波をものともせず、弾いていく。
その時、フリッツには余裕はなかった。直線上の背後にクリスがいたのは、まったくの偶然だった。
だから――アリシアとエリスを護ることはできなかった。
アリシアは護りの魔法を貫かれ、今度は逆に壁に叩きつけられた。
しかし、エリスのベッドはピクリとも動かず、一切の影響を受けなかった。