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「そして時計は動き出す」
アパートの小さな一室、12月の冷たい空気が窓から忍び込んで、碧(あおい)は膝を抱えてソファにもたれていた。スマートフォンのロック画面に、今日の日付が浮かんでいる。もうすぐ年が変わるのに、部屋の時計は去年のまま壊れていた。
壁の時計は、6時18分で止まったままだ。
時間が止まっている。
そんな感覚が、最近ずっと碧の心を蝕んでいた。
***
大学4年の春、湊(みなと)は突然、大阪の会社に内定をもらったと言い出した。
「驚いた?」
「……うん。遠いね。」
「でも、1人暮らしは苦手だし、また戻ってくるかもしれないよ。」
あのとき湊は、気を遣うように笑ったけれど、碧の心には大きな穴が空いた。二人は東京の大学で出会い、ほぼ毎日をともに過ごしてきた。それが突然終わることを、どう受け止めていいか分からなかった。
湊は5月には大阪に行ってしまい、碧は東京でひとり暮らしを続けることになった。三年以上も支え合ってきたのに、その絆すら薄れてしまうような不安だけが、日に日に増していった。
***
LINEのやり取りは、最初こそ毎晩交わされていた。けれど湊は新生活で忙しく、だんだん返信は遅くなり、既読だけつく日も増えた。
不安な夜、碧は過去のトーク履歴を何度も何度も遡った。けれど、「いつでも話してね」という湊の文章すら、溶けて消えそうだった。
「あのとき引き止めていたら――」
気がつくと、碧の時間は止まっていた。
***
年末、ふいに大阪から電話がかかってきた。
「碧、元気にしてる?」
声を聞くだけで涙がこぼれそうだった。
取り繕うように「普通だよ」と答えると、反対に湊は静かに言った。
「ごめん、なかなか連絡できなくてさ……。でも、今日だけは、碧と話したくて。」
「……今から来てよ。」
かすれた声で言った。言ってしまった。「来てくれなきゃ、もう無理かもしれない。」
電話口で少し沈黙があり、そして湊は「分かった。すぐ行く」と言った。
***
それから数時間後、夜の10時を回って、玄関チャイムが鳴った。
扉を開けると、湊がコート姿で立っていた。息が白い。
「泊まってもいい?」
碧はこくんと頷いた。
狭い部屋でふたり、床に座り込み、コンビニのココアを分け合う。その沈黙のなかで、湊が口を開いた。
「実は……しんどかったんだ。新しい場所で、誰も頼れなくて。だから連絡できなくなった。なのに、碧のほうがもっと苦しかったんだよな、ごめん。」
「謝らないで……。オレこそ、ずっと自分のことしか考えてなかった。」
溶けていくココアの甘さが、心にも染みていく。
「東京で一緒にいられた時間は、オレにとって全部宝物だった。けど…止まったままじゃ、きっとこのまま終わる気がして怖かった。」
「オレも…同じだよ…」
湊の手が、そっと碧の手に触れる。凍ったような時間が、その体温でじりじりと溶けていく。
「……これから、また一緒に新しい時間を作ろう。もう逃げない。一緒に進みたい。」
碧はその手を、ぎゅっと握り返した。壁の時計はまだ6時18分のまま。でも、二人で過ごす今この瞬間だけは、確かに“未来”に向かって動き出した。
***
翌朝、湊は古い時計を外し、新しい単三電池をはめてくれた。
秒針が小さく「チッチッ」と音を立てる。
進み出した時計の針が、二人の心も、これからも、前へと運んでいくようだった――。
そして時間は、動き出す。