「じゃあね、美千花。つわりが落ち着いた頃にまた会おうね」
ネット情報をみる限りではあと数週間もすればこの辛い症状から解放されるはずだ。
結局アイスクリームひとつまともに食べられなかった美千花は、蝶子に物凄い心配をかけてしまった。
水分はちゃんと摂れているし、家では〝吐いてもいいや〟ぐらいの気持ちで食べているからか、外出した時よりは色々口に出来ていると思う。
基本はフルーツや、今日みたいにアイス等口当たりのいい物に逃げてしまう美千花だったけれど、本人が思うよりもかなり、律顕に心配をかけているようで。
ここ一週間くらいは食事の支度をするのもニオイにやられてキツくて、律顕に不便な思いをさせてしまっている美千花だ。
なのに仕事で結構帰宅時間が遅めな律顕は、外で食べて帰ってくれていいのに、それをすることを潔しとしなかった。
「僕は美千花を一人にしておくのが凄く心配なんだ」
そう言ってデリバリーを頼んだり、どこかで買ってきたものを食べたり。
家事が出来ずに寝込んでいる美千花を決して責めたりはしない律顕だったけれど、正直家の中に食べ物を持ち込まれるのが美千花には辛かった。
でも、美千花が溜め込んだ家事を頼まなくても率先してこなしてくれる律顕を見ていると、そんなギスギスした事は到底言えない美千花だ。
「美千花も少し食べてみない?」
差し出される食べ物に、思わず眉間をしかめるたび、律顕は「ごめん。次こそは美千花が食べられそうなものを探してくるね」と辛そうな顔で笑うのだ。
察するに、律顕は自分が食べたいものを買ってきているのではなく、美千花が食べられそうなものを模索しているらしい。
***
あれはちょうど今から三日前。
律顕の甲斐甲斐しさに耐え切れなくなった美千花は、とうとう言ってしまったのだ。
「ね、律顕。私のことは気にしないで、律顕の好きなものを食べて来てくれていいんだよ?」
と。
――出来れば外で食べて帰って来て欲しい。
そんな思いが我知らず言の葉に乗ってしまったことに気付けないまま夫を見つめたら、「美千花は僕が家にいるの、嫌?」と眉根を寄せられた。
「えっ?」
ただ単に食事についての希望を言っただけなのに、律顕から予想外の答えが返ってきて、美千花は物凄く戸惑って。
「嫌、じゃ……ない、よ?」
でも抱きしめられたり近付かれたりするのは堪らなく嫌だったから、語尾が曖昧に揺れてしまった。
「じゃあ久々に君のこと、ハグさせて? 美千花、この所ずっと、僕のこと避けてるよね?」
「あ、あのっ」
図星だったから。
美千花は何も言えずに俯いた。
「お願い、美千花。君から来て?」
腕を広げる律顕に、美千花はどうしても歩み寄ることが出来なかった。
あんなに居心地が良くて大好きだったはずの律顕の腕の中なのに。
今はただただ嫌悪感が込み上げてくる。
泣きそうな顔をして眉根を寄せた美千花に、律顕が悲しそうな顔をして。
「ごめん。しんどい時に無理強いしたね……」
言って、くるりと背中を向けて。
「少し頭、冷やしてくる。美千花は気にせず寝てて?」
遠ざかっていく律顕の寂しそうな背中に、美千花は「待って」も「行かないで」も「ごめんなさい」も言えなかった。
***
その日を境に、律顕の帰りが以前にも増してぐんと遅くなったことをふと思い出した美千花だ。
今日、本当は蝶子にそのことも相談したかったのだけれど。
何となく言い出せる雰囲気じゃなくて話せなかった。
ばかりか、自分の律顕に対する冷たい態度への彼からの反応を聞かれた時、「分からない」と言う曖昧な言葉で誤魔化してしまった。
恐らく蝶子に話した通り、律顕は怒ってはいないと思う。
でも……。
(愛想は尽かされたかも……)
美千花はそれを認めるのが物凄く怖いのだ。
現状、夫のことを生理的に受け付けられない癖して、律顕に対して身重な自分を置き去りにしないで?と至極身勝手な甘えを抱いてしまう。
***
蝶子と別れて真っ直ぐ家に帰ろうとした美千花だったけれど。
天気も良いし、幸いつわりの症状も重くない。少しだけ遠回りをしてみようかな?と言う気持ちになった。
何より、こんな不安な思いを抱えたまま家に帰りたくなかったのだ。
(歩きながら気分転換しよ)
フルーツや桃缶など、食べられそうなものを買って帰るのもいいかなと思って。
会社の近くの商店街に小さな八百屋があって、そこのフルーツが新鮮で安価なことを思い出した美千花だ。
(スーパーに行くと人に酔っちゃうし……『やおまさ』でアレコレ買って帰ろ)
『八百屋やおまさ』は「八百屋」と冠しているだけあって、小さな店舗ながら野菜や果物が種類豊富なだけでなく、パンや缶詰やちょっとした調味料など、結構八百万置かれている。
八百屋と聞いて思い浮かべる青果店というイメージより、どちらかと言うと商店に近い感じ。
最近は多くの店でレジ袋が有料になったけれど、美千花の記憶が正しければ『やおまさ』はまだレジ袋も無料のままなはずだ。
気持ちがすっかり〝やおまさ寄り道気分〟にシフトした美千花は、家とは少し離れてしまうけれど、カフェや蕎麦屋や小料理屋などが立ち並ぶ商店街へと足を向けた。
***
最近は外を出歩くときはニオイ対策でマスクをする様にしている美千花だ。
妊婦である美千花にとって、マスクは感染症予防にもなって一石二鳥だけど、少し動くと暑くて息苦しくなってしまうのが堪らない。
「暑……」
初夏に向かって季節が移ろいつつある時節。陽の当たる場所にいると薄ら汗ばんできてしまう。
美千花は薄手の長袖ワンピースに身を包んでいたけれど、半袖でも良かったかも、とちょっぴり後悔して。
手近にあった電柱に手をついて「ふぅ」と吐息をついたところで、ふと斜め前方の喫茶店の店内に目がいった。
(……律、顕?)
律顕は暑い真夏でもホットコーヒーを好んで飲むタイプだ。
夫と思しき男性が手にしたカップもホット用のもので、コーヒーを飲むその人の顔にじっと目を凝らして律顕だと確信した美千花は、手を振ろうとして。
そこでふと彼の真正面にアイスコーヒー入りのグラスが置かれているのに気がついて、思わず動きを止めた。
そのグラスに華奢な左手が伸びたのを見て、無意識に律顕から死角になる場所へ身を潜めた美千花だったけれど。
その人の薬指には、美千花や律顕同様きらりと輝く指輪がはまっていた。
(既婚者?)
電柱の影に隠れるようにしてそっと覗き見れば、その手の主はミディアムロングの黒髪を後ろでポニーテールに束ねた女性で。
さっき蝶子との会話でも話題になった人物――。
「西園先輩……?」
だった。
思わず目にした相手の名前を口走ってから、美千花はキュウッと胸の奥が痛む。
律顕が自分以外の女性に柔らかな笑みを向けているのが、凄く嫌だと思ってしまったから。
ああして座っていると、ホワンとした印象の美千花なんかよりよっぽど。凛とした美人の稀更の方が、クールな顔立ちの律顕とお似合いに見えて。
律顕と付き合い始める前。
美千花に「僕の彼女になって欲しい」と告白をしてきた律顕に「永田さんは同期の西園さんと恋仲なんじゃないんですか?」と聞いてみた事があるのを思い出した美千花だ。
彼は即座に「有り得ない」と否定してくれたけれど、社内では専ら「出来ているに違いない」と噂の絶えなかった二人なのだ。
さっき蝶子がわざわざ彼女の復帰を仄めかしたのだって、きっと。それがあったから、気を付けなさいよ?と言いたかったのだろう。
美千花は現状つわりのせいで律顕に近付かれることに、自分ではどうしようもない程に強い嫌悪感を覚えてしまうのだけれど。
だからと言って律顕への愛情が尽きたわけではなかったのだと、たった今締め付けられるような胸の痛みとともに実感させられた。
(何で課の違う二人が一緒にいるの?)
営業同士というのならまだ分かる。
だけど美千花の知る限り、財務と営業が外に一緒に出る用なんてないはずなのだ。
大概のことは社内で済むはずなのに……二人きりで何してるの?
もちろん同期なのだから全く話さないということはないと思う。
でも――。
(律顕、私にプロポーズしてくれた時に約束してくれたよね? 私を不安にさせる様な事は絶対にしないって)
なのに――。
何故?と問い質したいのに、美千花は喫茶店に乗り込んで行って、律顕に「これは一体どういうことなの?」と聞く勇気が出せなかった。
自分の、律顕への態度が酷かったというのも嫌と言うほど自認しているから。
だからだろうか。
二人に目撃されることも怖いと思ってしまったのは。
結局その日、美千花は『やおまさ』にも寄れないままトボトボと帰宅した――。
***
喫茶店で夫と西園稀更の姿を見た日の夜。
美千花はどうしても悶々とした気持ちが抑えられなくて、律顕に話を聞いてみようと夫の帰りを待っていた。
「――ただいま」
「お帰りなさい」
夜の十一時を過ぎて帰宅した律顕を、美千花はパジャマにマスク姿で出迎えた。
外出時にマスクをしていることはあっても、さすがに家の中でマスクをしたことはない。
昼間の一件で、律顕への愛情こそ消えてはいないと確信した美千花だったけれど、彼のにおいへの嫌悪感は未だ消えやらなかったから。
それを抑えるため、マスクを付けて何とか夫に近付こうと試みてみた。
「――美千花、まだ起きてたの? ちゃんと寝ないと身体に障るよ?」
なのに、珍しく玄関先まで出迎えてきた美千花に、律顕は明らかに困ったような顔をしてそう言った。
いつも家でマスクなんて付けていない美千花なのに、その事を指摘しようとすらしない律顕に、美千花は不安を募らせる。
(律顕はもう……私に興味を失くしてしまったの?)
ふとそこで、昼間見た西園稀更へ向けられた律顕の笑顔を思い出した美千花は、半ば無意識。
妊娠前のように彼の荷物を受け取ろうと律顕に近寄って。
戸惑ったように立ち止まった律顕に、距離を置くように一歩退かれてしまった。
「……美千花は今、つわりでしんどいだろ? 無理するな」
もっともらしい理由を付けられたけれど、美千花を避けるみたいな態度を取った律顕が、
「さ、美千花は先に寝てて? 僕はシャワーを浴びてくるから」
言って、美千花の横を避ける様にすり抜けてリビングに行ってしまう。
「あの、でも私……今日は貴方に聞きたいことが……」
必死に律顕の背中に呼びかけてみた美千花だったけれど、その声が聞こえなかったのか、それともあえて聞こえないふりをされてしまったのか。
律顕は美千花の方を振り返ってはくれなかった。
散々律顕を避けてきたのは美千花の方だったのに、いざ律顕に同じようにされると凄く悲しくて。
美千花はマスクの中、キュッと唇を噛んで涙を堪える。
(ねぇ律顕。どうして私と向き合おうとせず、すぐにシャワーなの? 何か消したい痕跡でもあるの?)
マスク越しでよく分からなかったけれど、すれ違う際、律顕から女性ものの香水の香りがした気がして、美千花は自分の負の妄想を、拳をギュッと握って押し潰す。
だけど、その後どうしていいのか分からないまま。
風呂場から聞こえてきた流水音をぼんやりと聞きながら、美千花は玄関先に呆然と立ち尽くしていた――。