コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
美千花が律顕に歩み寄ろうとした時には、既に遅すぎたのだろうか。
「あの、律顕……」
「ごめん、美千花。今日はちょっと忙しいんだ。またにしてもらえるかな?」
何とか律顕と話をする機会を作ろうと試みる美千花だったけれど、その度に体のいい言い訳をされてはかわされてしまう。
そんな事が、もう十回以上は続いただろうか。
こうも続くと、さすがに美千花も律顕に避けられていると思わざるを得ない。
そんな中、せめてもの救いは律顕がどんなに遅くなっても、必ず美千花の待つ家に帰って来てくれることだったのだけれど。
美千花が彼の帰りを起きて待っていると、律顕は明白に困った顔をするのだ。
「ねぇ美千花。僕のことは気にせずゆっくり休んで? お願いだから」
いつか自分が律顕に告げた、「私のことは気にせず食べて来て?」と言う言葉を彷彿とさせられる気遣いをされて。
挙句「キミは今一人の身体じゃないんだから」と付け加えられては従うしかないではないか。
ならば、と朝話し掛けようとしても、
「ごめんね、今、仕事が立て込んでるから早めに行かなきゃいけないんだ」
そんな風に言われて、朝食も食べないまま逃げるように会社に行かれてしまう。
律顕が自分に構ってこない状態は、かつて美千花自身が望んだ事だったはずなのに。
いざそういう状態になってみると、美千花は堪らなく不安になった。
今現在、つわりは徐々に落ち着いてきている。
だけど、元々ストレスに強い方ではない美千花は、このところ胃痛と不眠、動悸や息切れに悩まされるようになっていた。
律顕が嫌がるから早めに床に就く様にはしているけれど、誰もいない部屋の中、薄暗がりでベッドに寝そべっていると悪い想像ばかりが膨らんでしまう。
「律顕……」
抱きしめられるのは今でもやっぱり躊躇われてしまうけれど。それでも顔を見てちゃんと話したい。
そう思った。
***
先の妊婦健診から丁度四週間。
妊娠週数も十三週目の半ばを超え、つわりの症状も大分緩和されてきた。
そんな中、美千花はひとり二度目の健診のため、総合病院産科の待合いにいた。
律顕は先の健診同様、病院に付き添ってくれると信じていた美千花だったのだが。
「ごめんね、美千花。どうしても外せない仕事が入ってしまったんだ。――ひとりで……行けそう?」
健診予定日の前日になって、カレンダーのメモ書きを指差してそう言ってきた律顕に、〝予約の日時を変更出来るか問い合わせてみる?〟と聞いてはくれないんだなと思った美千花だ。
実際大きな病院の予約日時の変更はそんなに楽ではない。
でも、以前の律顕ならきっと、ダメ元でもそう言ってくれていた気がして。
美千花は律顕の死角になる様気をつけながら、ギュッと拳を握りしめた。
本当は健診の移動時間や待ち時間を利用して、ずっと話せなかった気持ちを律顕に伝えられたらと思っていたのだけれど。
仕事だと言われてしまったら、引き下がるしかないではないか。
男性にとって仕事が大事なのは百も承知だったし、何より今現在無職の美千花にとって、永田家が律顕の稼ぎで支えられている事は嫌と言うほど分かっていたから。
勿論貯蓄がないわけではない。
寧ろ律顕はかなり稼ぎが良い方だったから、同年代の夫婦の平均より蓄えているぐらいだろう。
でも、今から子供が産まれてくることを考えたら、増やす努力はしても、減らす様な事はしたくなかった美千花だ。
「――うん。つわりも大分落ち着いて来たから平気。律顕も……その、お仕事……頑張ってね」
一瞬だけ顔を伏せてからニコッと笑顔を作ると、美千花は何でもない事の様に心裏腹な言葉を口にした。
今までちゃんと律顕に気持ちをぶつけてこなかったのが今の事態を招いたのだと分かっていても尚、美千花は本心を律顕にぶつけることが出来ない。
「――それで、もし……」
その事に思い至った美千花は「それで、もし時間が出来たら少しだけでも顔を出して欲しい」と続けようとして。
「ん?」
律顕に見つめられた途端、そんなワガママを言って彼を困らせるのはよくないと思って。「ごめん。忘れちゃった」と誤魔化した。
「美千花……僕は……」
そんな美千花に律顕も何か言いたげに口を開きかけたけれど、美千花が小首を傾げて彼を見上げたら「あ、いや、えっと……無理しないでね」と語尾を濁す。
(本当は何を言おうとしたの?)
美千花はそう疑問に思ったけれど、結局お互い本音が言えないままになってしまった。
***
「永田さん、貧血が酷いですね。身体がだるかったりしませんか? あと、体重が前回より物凄く減ってるけど……ちゃんとご飯食べられてます?」
「えっと……しんどいのはずっとなのでだるさはよく分からないんです。食事もすみません。つわりが酷かったので実は余り」
担当医の伊藤昭二に問われて、美千花はオロオロと視線を揺らせる。
美千花の血液検査の結果を眺めながら、眉根を寄せる伊藤医師を見ていると、お腹の中の赤ちゃんは大丈夫だろうかと不安になる。
「十三週と五日か。つわりはまだしんどい?」
カルテから視線を上げて美千花を見つめてくる伊藤に、フルフルと首を横に振る。
「ピークは過ぎたと思います。大分楽になってきたので」
「それは良かった。じゃあこれからは少しずつでもいいから栄養のあるものを食べるよう心がけて? 血液検査の数値が良くないから鉄剤を処方しておきますね」
コクっと頷いた美千花に、「便秘とかある?」と伊藤が何でもないことのように付け加える。
医者なのだからそう言うのはサラリと問うものだと分かっていても、美千花は異性にそんなことを話さなければならない事にちょっぴり羞恥心を覚えて。
「少し……」
小さな声でボソリと告げたら、
「もし便通がなくてしんどくなったら遠慮なく言ってね。あと、副作用でまた気持ち悪いのきちゃうかもだけど、しばらく飲み続けてたら落ち着くはずだからそこは様子を見てね」
優しく微笑まれて、美千花は肩の力がふっと抜ける。
「じゃあ、エコーで赤ちゃんの様子を見てみようか」
伊藤医師が言って。
また下着を脱いで下を晒さないといけないのかと思ってギュッと身構えたら、
「今日はお腹からのエコーだよ」
言われて、美千花はホッと胸を撫で下ろす。
お腹を出すのも恥ずかしいことではあるけれど、カーテン越し、あられもなく脚を開いて下腹部を明け渡すよりはよっぽどいい。
前の健診の時に、経腹エコーに切り替わったら律顕にも動いている赤ちゃんの姿を見せてあげられるかなと思ったのを思い出して、美千花は胸の奥がキュッと締め付けられた。
「ちょっと冷やっとするよ〜」
伊藤医師の言葉に、美千花はコクッと頷いた。
***
一人きりの健診の帰り道。
美千花は動悸と息切れを伴った目眩に襲われて、思わず道端に立ち尽くした。
とりあえず倒れては大変と近くにあった街路樹そばのベンチに腰掛けて、息苦しさや酩酊感が去るのを待つ。
(ちゃんと食べられてないから?)
病院で体重を測ったら、前回の健診時より三キロちょっと減ってしまっていた。
元々細身だった美千花は、メイクで誤魔化していないとやつれて見えるようになって。
看護師さんから「つわりで食べられなかったからかな」と優しく言われて頷いたけれど、最近の食欲不振はそれが原因ではない事を、美千花は嫌と言う程自覚している。
(律顕……)
夫の顔を思い浮かべると、涙で視界がゆらりと霞んだ。
美千花が外で食べて来て欲しいと暗に示唆して以来、彼とちゃんと食卓を囲んだ事はなかったなと思って。
律顕も、美千花を気遣ってか家では何も口にしなくなっていた。
顔を合わせれば、相変わらず美千花の身体を何よりも心配してくれる律顕だったけれど、距離を置かれているのはどうしても否めない。
未だ、西園稀更と一緒に居た理由を聞けていない事が、心の底に澱の様にわだかまっていて凄く辛い。
なのに、最近は何という事のない会話ですらマトモに出来ていない有様だ。
肝心な時についもう一歩を踏み出せなくなる自分の弱さを、心の底から恨めしく思った美千花だ。
ギュッと手指に力を込めたら、指先が血の気を失ったように白くなる。
そんなざわついた心を落ち着かせるみたいに、絶妙のタイミングでサァーッと吹き抜けた風が、すぐそばの街路樹を撫でてサワサワと心地よい葉擦れの音がして。
その木が落とす木漏れ日が葉の動きに合わせて揺れるのでさえ、美千花の心を宥めてくれている様に思えた。
白い斑模様入りのツルリとした木肌を見て、
(ヤマボウシ?)
と思う。
そう意識して風に揺れる枝葉を見上げれば、緑色の葉の間に白く大きな花弁の様なもの――総苞 が付いているのが見える。
ヤマボウシはハナミズキ同様、葉が白く変色して花みたく見えるミズキ科の落葉高木だ。
秋に実る赤い実はそのまま食べても甘くて美味しいらしいけれど、以前たまたま行きつけのお店で見つけて買ったジャムが気に入った美千花は、その木の特徴をネットで調べて知っていた。
(そうだ。ジャムなら食べられるかな)
甘酸っぱいジャムをひと匙舐めるぐらいなら、何とかいけそうな気がして。
美千花は、ここ最近つわりの時に食べられていたフルーツですら飲み込むのがしんどくて、ついついアイスや炭酸水など、水分だけで済ませる様になってしまっていたから。
それを思っての事だった。
梅雨入り前の今ぐらいの時期が旬の果物と言えば、枇杷やブルーベリー辺り。
結婚前によく利用していた手作りジャムの専門店『陽だまりジャム』が、ちょっと行った先にあるのを思い出した美千花は、寄ってみようかなと思い至る。
ヤマボウシの実で作られたジャムも、そこで買ったものだ。
(少し遅れちゃったけど、もしかしたら野苺のジャムがまだあるかも)
市販の苺で作ったジャムより粒々と酸味が多めの野趣溢れる野苺ジャムは、美千花のお気に入りのひとつだった。
とにかく何かを口にしなければ、と思った美千花だ。
家にある炭酸水にジャムを落とし込んで飲むのもありかも知れない。
美千花は独身時代シャンパンにジャムを入れて飲んだり、温かな紅茶に入れてロシアンティーにして飲むのも好きだったから。
動悸と息切れが少しずつ落ち着いてきた美千花は、手指に込めていた力を少し抜いた。
――と、そこで鞄に入れていたスマートフォンのバイブが響き始めて、律顕かも知れないと思っていそいそと取り出してみる。
「蝶子……?」
だが、画面に表示された相手が友人だと知って、小さく落胆の吐息を落としてしまった。
(ごめんね、蝶子)
時刻を見れば正午を回ったところで、恐らく昼休みを利用して電話をくれているんだろう。
美千花は急いで通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
『あ、美千花、今平気?』
仕事をしていない美千花だ。
平気でないことの方が少ないのに、と思いながら「大丈夫だよ」と答えたら、『病院は終わった?』と意外な事を問われた。
「……私、蝶子に今日健診だって言ってたっけ?」
彼女にそんな話をした覚えはなくて戸惑ったら、『わーい! やっぱりビンゴだった〜。今日、永田さんお休みだって聞いたからさ、そうなのかな?って鎌をかけてみました〜』と美千花にとって寝耳に水なことを言う。
『美千花、前、ご主人との事で悩んでる風だったから心配してたの。仕事休んで妻の健診について来てくれるご主人とか……やっぱ最高じゃんっ⁉︎ 愛されてるよ、美千花!』
良かったね、と嬉しそうに言われて、美千花は「あ、うん……」と取り繕うので精一杯。
『やっぱ西園先輩の所とは違うね』
吐息混じり。ついでのように付け加えられた言葉に「え?」と呟いたら、
『あれ? 言ってなかったっけ。西園先輩、ちょっと前に離婚したみたいだよ』
言われた言葉が理解出来なくて、美千花は何も言えなくて。
先日律顕と差し向かいで喫茶店にいた時には、彼女も指輪をしてたのにな、とぼんやり思う。
彼女の指に〝結婚の証〟があった事が。
西園稀更も自分同様有夫だと思える事が。
ほんの少しだけど美千花の心の支えだったのに。
(ねぇ律顕。まさか貴方が彼女の離婚の原因……じゃない、よね?)
『あっ。何か嬉くてつい電話しちゃったけどよく考えたら今、旦那さんと一緒じゃんね。邪魔してごめん! 今度またランチ行こうね!』
慌ただしく蝶子が言い立てる言葉が、美千花には殆ど頭に入ってこなかった。
(律顕、今日はお仕事忙しいって言ったよね? だから健診には付き添えないって。なのにお休みしてるって……何? 今、誰と一緒にいるの?)
ツーツー……と通話切れの無機質な音を響かせる携帯を耳に当てたまま、呆然自失。
宛もなくベンチから立ち上がってフラフラと歩き始めた所で、フワァーっと目の前が暗くなっていく。
(ヤダ、ダメ。倒れ、ちゃう……)
暗転する意識の中。
美千花の異変に気付いたらしい誰かが駆け寄ってくる気配に、(お願いします。お腹を打たないように支えてください)と無意識に乞うた――。