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ひよりが新百合ヶ丘の自宅マンションにたどり着いたのは、真夜中の2時を過ぎた頃だった。
智明が車で迎えに来てなければ、新宿の特捜機動隊本部に泊まって、朝早くに電車で帰宅する筈だった。
仮眠をとった後で、鷹野宅へ向かうことも考えていた。
しかし、愛妻家の夫はそれを許さずに、心労の溜まったひよりに冷たい缶コーヒーを手渡して、
「お疲れ様でした」
と、車のドアを開けた。
ひよりは、そんな気配りに感謝した。
帰宅して真っ先に向かったバスルームで、熱い湯を身体に受けながら目を閉じる、
あの日以来、エイガ雫の遺体を目にしてからというもの、仕事終わりのシャワーには時間をかけるようになった。
国家という得体の知れないモノに捧げている心は、乾ききってしまった。
それは淋しい現実だった。
潤いが欲しかった。
それに、火薬の臭いも嫌だった。
だから、シャワーには目一杯時間をかけた。
和室では、共栄がスヤスヤと眠りについていた。
その脇では、猫の村長さんが丸まっている。
ひよりが小声で。
「ただいま」
と言うと、村長さんは大欠伸をして、再び顔を自分のお腹に埋めた。
リビングのテーブルには、ホットチョコレートが用意されている。
智明と一緒にいられるのも久しぶりだった。
ひよりは、カップを両手で包み込んだまま言った。
それはひとり言に近かった。
「私ね、時々恐ろしくなるの」
「うん…」
「みんなが居なくなって、ひとりだけ残された世界よりも、居なくなった人たちを忘れながら、暮らしを続けていかなきゃならない世界の方が怖いって…」
「うん…」
「それが負けないってこと?」
ホットチョコレートが身体に染み渡っていく。
ひよりはわからなかった。
何故自分が、こんな話をしているのかを。
ただ何となく、聞いて貰いたい言葉が次から次へと溢れ出た。
「人って、そこまでして生きなきゃいけないのかな。生きるって、そんなに立派なもの?」
その時、村長さんがひよりの足元にまとわりついて来た。
ひよりは、前より重たくなったその身体を抱き上げた。
村長さんの目はクリクリと動いている。
「村長どの。あんたはどお思うのかしら?」
すると、智明の声がした。
「そうじゃのう。それで悩むのも人間かも知れんぞなもし」
ひよりは微笑みながら、村長さんとその後ろの智明の顔を交互に見比べて、
「人間って悲しいわね、村長さん」
「愚か者め!わしゃあ逆に人に生まれたいぞい!」
「どうして?」
「わしらなんてな。数分前のことだってすぐ忘れるんじゃ。だから慌てて木によじ登って降りれなくなったり、懐中電灯の光だとわかっていても、それを追っかけ回したり…猫も大変なんじゃよ」
「あはは。たいへん」
「そこへいくとお前らは羨ましいぞ。脳が発達しとる。愛する我が子や、カッコいい旦那の顔や思い出をしっかりと焼き付けられるのじゃ。何年も何十年も」
ひよりは、笑いながら村長さんを降ろした。
目の前で、智明も笑っていた。