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それからの涼ちゃんは、「問題ない人」みたいに振る舞うようになった。
時間は守る。
音も外さない。
返事も、する。
でも――
余分なものだけ、全部削った。
リハが終われば、
誰よりも早く片付ける。
雑談が始まる前に、
もうケースを閉じている。
若井が何か言おうとすると、
涼ちゃんは先に言う。
「先帰るね」
理由は言わない。
聞かせない。
帰り道、
イヤホンをつけても
音楽は流さない。
ただ、
外の音を遮るためだけ。
夜。
家に帰っても、
照明は最低限。
ご飯は食べる。
でも味は覚えていない。
ベッドに横になっても、
眠れない。
目を閉じると、
スタジオの音が浮かぶ。
自分のキーボード。
強く叩いた、
あの不協和音。
誰もいないのに、
「大丈夫?」
と聞かれた気がして
胸がざわつく。
スマホが震えても、
画面は見ない。
見れば、
何かを返さなきゃいけなくなるから。
(もう、期待されたくない)
(ちゃんとしてるって思われたくない)
そんな言葉が、
はっきり形になる前に
全部飲み込む。
次の日も、
その次の日も。
涼ちゃんは
音だけを残して、感情を引っ込めていった。
鍵盤の前では、
無心。
でも、
音が止まると
一気に空になる。
誰かに気づいてほしい気持ちと、
気づかれたくない気持ちが
同じ強さでぶつかって、
結局、
どこにも出せない。
闇は、
爆発しない。
静かに、
少しずつ、
涼ちゃんの中に沈んでいく。
そしてある日――
スタジオのドアを開けた瞬間、
涼ちゃんはふと、
「ここにいなくても
音は回るんだな」
そう思ってしまった。
それが、
一番深いところへの
入り口だった。