テラーノベル
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「栞さん、大丈夫か」
九条刑事の声に弾かれたように顔を上げると、そこにはもう結衣の姿はなかった。
廊下には湿った空気だけが残り、まるで今までの会話が白昼夢だったかのような錯覚に陥る。
「……あ、…ぁ」
私は喉を震わせ、音を出そうとした。
けれど、結衣が消えたと同時に、取り戻したはずの声は再び硬く、重い沈黙の底へと沈んでしまった。
やはり、あの声は「契約」の対価として
彼女が一時的に貸し与えただけのものだったのか。
私は震える手で、ホワイトボードに『大丈夫です』と書き、九条に見せた。
「そうか。……美波の処置は終わった。彼女は一生、自分の喉を焼いた後悔と共に生きることになるだろう」
九条は淡々と語る。
その横顔は、悪を裁いた正義の味方のものに見えた。
だが、私のスマホが再び震える。
『パンドラ』
アンインストールしたはずのアプリが、ホーム画面の真ん中で嘲笑うように居座っている。
届いたのは、一枚の古い写真だった。
それは10年前、警察署の裏口で撮られたもの。
若かりし日の九条が、美波の母親——
あの時、権力を使ってすべてを揉み消した女から、分厚い封筒を受け取っている瞬間。
(……そんな)
目の前で「ドミノ倒しだ」と冷徹に笑っていた男もまた、私を地獄に突き落とした「傍観者」の一人だった。
いや、彼は傍観者ですらない。
私の声を奪った熱湯の、その「燃料」を運んだ共犯者だ。
九条が私のスマホを覗き込もうと、顔を近づけてくる。
「どうかしたか?まだ何か、気がかりなことでも——」
私は反射的にスマホを胸に抱き、彼から距離を取った。
九条の目が、一瞬だけ鋭く細められる。
理系の彼なら、私の心拍数の上昇も、瞳孔の開きも、すべて「動揺の証拠」として計算に入れているだろう。
そのとき、署内がにわかに騒がしくなった。
待機していた警官たちのスマホが一斉に鳴り響く。
「なんだ、この通知は……」
「『パンドラ』? 知らないアプリが勝手に入ってるぞ」
結衣の言った通りだ。復讐は終わっていない。
窓の外、雨の降る街を見下ろすと
行き交う人々が立ち止まり、一様にスマホの青白い光に照らされていた。
【パンドラ:街の浄化を開始します】
あなたの隣にいる「偽善者」を告発してください。
最も多くの票を集めた者に、真実の罰を与えます。
SNSのトレンドは一瞬で塗り替えられた。
ターゲットはもはや美波たちではない。
「不倫している教師」
「万引きを隠している主婦」
「いじめを見て笑っていた同級生」
街中の悪意が、匿名という盾を得て、一気に噴出し始めたのだ。
九条が舌打ちをし、無線に怒鳴り散らす。
私は、彼の背中を見つめながら、スマホに届いた結衣からのメッセージを開いた。
「ねぇ、栞。九条刑事にその写真を見せたら、彼はどんな顔をするかしら。…正義の味方が崩れる音、一緒に聞かない?」
私はホワイトボードを握りしめた。
復讐の火は、もう私一人の手には負えないほど、巨大な業火となって街を焼き尽くそうとしていた。
深冬芽以
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