テラーノベル
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あの日から数日は、いつもと変わらない日常が続いていた。
洗濯物を干し終え、柊吾はふうと息をついた。梅雨の合間の貴重な晴れ間だ。乾くかどうかは怪しいが、部屋干しよりはましだろう。
ベランダから戻り、母の様子を確認しようとした、その時だった。
ピンポーン。
不意に鳴ったインターホンの音に、柊吾の肩がびくりと跳ねる。
(――誰だ、こんな時間に)
来客の予定など何もない。まさか、また見知らぬ業者か何かだろうか。
緊張で胃をキュッと痛めながら玄関に向かい、恐る恐るドアを開けた。
「――こんにちは、柊吾さん」
ドアの向こうに立っていたのは、爽やかな笑顔を浮かべたあの男――黒瀬瑞樹だった。手には何かが入った小さな紙袋を提げている。
(――……ッ!?)
認識した瞬間、脳内で警戒アラートが爆音で鳴り響いた。
あの日――激しい羞恥の記憶が津波のように押し寄せ、柊吾は思考を放棄して全腕力でドアを叩きつけた。
バンッ!!
「――っと、危ないですね」
バチンと閉まるはずだったドアが、途中で「ガッ」と鈍い音を立てて止まった。
見れば、隙間に瑞樹の革靴が一歩差し込まれている。痛い素振りどころか顔色ひとつ変えず、瑞樹は隙間から眼鏡の奥の目を和ませ、ふわりと微笑んでいた。
「あいかわらず素晴らしい反応速度ですが……もう少しだけ話を聞いていただけますか?」
「ひっ……! あ、足っ! 挟まって……っ!」
「ええ、ですから開けていただけると助かります」
逃がさないという強い意思を感じる笑顔に気圧され、柊吾は引きつった顔のまま、泣く泣く数センチだけドアを引き戻す羽目になった。
隙間からぬっと覗く瑞樹の顔。彼は挟んでいた足を優しく引き抜くと、痛がる素振りすら見せずに服のシワをサッと整えた。
「そんなに警戒しないでください。引っ越しの挨拶に来ただけですから」
にこやかに言われ、柊吾の思考が再びフリーズする。
「……は?……引っ越し?」
「ええ。今日からお隣の303号室に住むことになりまして。改めまして、よろしくお願いします」
爽やかな手つきで差し出された紙袋と、完璧すぎる営業スマイル。
(――なんで。なんで隣なんだよ、なんでよりによって隣……!!)
「警戒しないで」と言いながら、物理的に退路を塞いできた男の底知れなさに、柊吾は背筋が寒くなるのを禁じ得なかった。
頭の中で警報がガンガンと鳴り響いていた。あの日――数日前のあの激しい羞恥の記憶が鮮明にフラッシュバックし、顔が一気に熱くなる。
「あ、あの、えっと……」
そあふぃー
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しどろもどろになる柊吾を見て、瑞樹はくすりと小さく笑った。その笑みに、柊吾はさらに追い詰められる。
(――笑われてる。絶対、あのときのこと思い出されてる……!)
「引っ越しのお蕎麦です。よかったら召し上がってください」
「あ、はい、どうも……」
反射的に受け取ってしまってから、柊吾はハッと我に返った。
「い、いえ! 別に、隣に住むからって、仲良くする必要はないですし! 挨拶していただかなくても大丈夫でしたので!」
早口でまくし立てるように言い放つと、瑞樹はきょとんとした顔をした後、ふっと眼鏡の奥の瞳を細めた。
「そうですか。でも、隣人ですから。何かあれば、遠慮なく声をかけてくださいね」
柔らかい声だった。だが、その言葉の裏に、どこか逃がさないというニュアンスが滲んでいる気がして、柊吾は思わず一歩後ずさった。
「そ、それでは! 失礼します!」
逃げるようにドアを閉める。バタン、と大きな音が狭い玄関に響いた。
その場にへなへなと座り込み、柊吾は胸を押さえて荒い息を吐いた。
(――なんなんだよ、一体……)
心臓はまだ痛いほど早鐘を打っている。手の中には、渡された紙袋がしっかりと握られたままだった。
コメント
1件
柊吾のパニックっぷりがすごく伝わってきて、思わず笑っちゃいました。ドアを閉めようとして足を挟まれるところとか、まさに追い詰められてる感が(笑)。でも瑞樹さんの「逃がさない」感が絶妙で、ただのストーカーじゃなくて、ちゃんと引っ越し蕎麦持ってきてるのがまた狡猾だなあと。この距離感、すごく好きです。