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第8話 勿忘草
「お母さん…」
彼の母親は、振り向かない。
そして、小さく何かを呟いて、病院から出て行ってしまった。
「おんりー君…」
僕がどうしようもできない、という気持ちで彼を見ると、彼はへらへらと笑った。
「あはは…お母さん、やっぱだめかぁ…」
彼の笑顔は、出会ったばかりの頃とは違う冷たさがあった。本心では笑えていない。
残酷な事実を理解することは、第三者の自分でも容易かった。
翌週、彼の元に一通の手紙が届いた。
僕がそれを届けると、彼はこれまでにないほどの笑顔を見せた。
あの逃避行の時よりも、ずっと笑顔だった。
封を開けて、中身を見た彼は、紙をくしゃくしゃにして、なんとも微妙な投げ方で紙を投げ捨てた。
すぐそばに紙屑となった手紙は落ち、カサッと、軽い音だけが聞こえた。
「……お母さん…」
震える声でそう呟くおんりー君。
しんと静まりかえった病室。
プレイルームで遊ぶ子供達の声が微かに聞こえてくる。
「手紙、見てもいい?」
何も言わずに頷いたから、くしゃくしゃの紙を拾い上げ、広げて読んだ。
読んでいて、思わず目を見開いた。声が出ない位、驚いてしまう。
そこに書かれていたのは、実質的に中学3年生とは言えど、社会に一切関わることができず、閉鎖的な空間で育った少年には余りにも残酷な言葉だった。
「さようなら」
その一文のみの手紙。
そして、そのまま立ち上がって廊下を走って行ってしまった。
「待って‼︎」
慌てて立ち上がり、彼の行方を追う為に、足を踏み出した。
「…ここなら…誰も来ないよね」
そう呟いて、座り込む。
屋上庭園の、電気系統設備の影。
そこには、萎れた勿忘草が、一輪だけ咲いていた。
数週間前に、ICUの病床がもう一床増えた、とドズル先生が言っていた。
そこの電気系統なのかな。
とにかく、これまではなかったと思う。
「勿忘草…日陰に入って可哀想」
勿忘草は日向を好む。というか、日向が好きな植物は多いだろう。
屋上庭園は常に人がいる。
お年寄りや、若い人、小さな子供など、様々。
花は色とりどりで、みんな鮮やかだった。
でも、この勿忘草は、みんなに忘れられている。色褪せている。
「…まるで僕みたい」
空がどんよりとしていて、今にも雨が降り出しそうな天気。
いつまでもここにいたい。
そして、この勿忘草と共に、忘れ去られたい。
一体どこに…‼︎
彼が行きそうなところは全て探した。
外に出た可能性も考えたが、受付があるからそれはあり得ない。
プレイルーム、お手洗い、階段…
幾ら探しても、全く見つからない。
屋上庭園も探そうと、走って階段を登る。
医者になってから、ここまで連続で階段を登り降りすることはあまりなかった。
息が切れそうになるが、こんなところで止まっている場合ではない。
力強くドアを開けて、探し回る。でも、やはり彼の姿はない。
息が切れて、その場で呼吸を落ち着かせている時。
「ーーーー♩ーーーー♫」
この声。か弱くて、掠れている声。
歌を歌っている?
声がする方に目をやると、電気設備がある。
そこにいるの?
裏を覗いてみる。
すると、おんりー君がそこにいる。
彼は、ずっと何かを呟いていた。
「お母さんとの、思い出の歌。」
「先生にも、お母さんにも、みんなにも。僕はいつもいつも…迷惑ばかりかけて…‼︎」
「…僕なんて…いないほうがいいんだよ…」
激しく咳き込む彼。
我にかえり、焦って立ち上がる。
彼が抑えていた手を広げた時。
彼の目が見開いた。
自分も、思わず目でその掌を追った。
掌から、真っ赤な液体が腕を伝っていく。
口元には、僅かな血がついていた。
彼はその瞬間に意識を失い、その場に倒れた。
「おんりー君‼︎」
返事はない。急いで、けれど慎重に、PHSを取り出してから彼の身体を持ち上げ、階段を駆け降りた。
1週間たった今。
ICUからは出たけれど、今も意識は戻らない。酸素マスク越しに聞こえる息は、とても小さかった。
彼を抱き上げた時の感覚が、まだ手に残っている。
恐ろしい程に軽くて、恐ろしい程に細くて、脆かった。
少し力を入れたら折れてしまいそうな腕、痩せ細った身体。
どうして、これまで気がつかなかったのだろう。
体調不良の時以外、しっかりとご飯を食べて、よく寝て、明るく、楽しそうにしていたのに。
いや、食べられていなかった?
本当は寝れていなかった?
迷惑をかけないように演技をしていた?
全て、嘘だった?
そんな考えが頭を巡って、離れない。
「僕なんて…いないほうがいいんだよ…」
か細くて、悲しげで、儚い声。
忘れられない。
この病室に幼い頃から囚われてしまった彼の精神は、きっと脆弱なものだ。
不安定で、鬱に近くてもおかしくはない。
初めて会った時とは比べ物にならない程に明るくなったことに、違和感を感じていたのは正しかったのかもしれない。
彼の為に、庭園の日当たりの良いところに移した、一輪の勿忘草が頭から離れない。
「せん…せ…」
掠れた声が聞こえた。驚いて振り向くと、おんりー君は薄らと目を開けていた。
「おんりー君‼︎」
「…ごめんなさい…また…めいわく…かけちゃったぁ…」
「全然そんな事ないよ。気にしないで。」
彼が目を覚ましたのは、意識を失って2週間経った日のことだった。
あの日は曇りで、病室内には重苦しい空気が流れていた。
あれから3週間。これまで、彼への罪悪感で、顔向け出来なかった。
彼のかかりつけの先生から、状態は回復した、と聞いた。
今日こそは。彼に話がしたい。そう思った。
ドアをノックする。
「はい」
ゆっくりと開けると、彼がベッドに座っていた。
思わず駆け寄って、抱きしめてしまう。
先生が病室に入ってきて、ぎゅっと抱きしめられた。
このままだと、涙が出てきそうだった。
「先生、らしくないじゃないですか〜」
と、作り笑顔を作って、出来るだけ声を明るくして返した。
「もういい…もういいんだよ…」
先生の声が、震えていた。
「もう、どうしたんですか、先生…」
息を呑んだ。
先生は、泣いていたんだ。
「先生…」
「もういいんだよ…作り笑顔なんてしなくていい…明るく振る舞わなくていいんだよ…」
「辛いのに、無理させて、ごめんね…」
言葉が出てこない。お見通しだったなんて。
「…もう、いいの…?」
「もういいんだよ。昔のままでいい。無理して変わろうとしなくていい。」
その言葉に、じんわりと涙が溢れる。
「…もういいの…?」
「もう、作り笑顔やめていいの…?」
「いいんだよ…辛かったら、沢山泣いていいんだよ…」
涙が、止まらない。
「…辛かった…いつまでも退院できないし…
いつも身体が辛いし…食欲が湧かないし…」
「先生たちに迷惑をかけたくないし…」
言葉が、止まらない。
「僕なんて居ない方がいいのかなって…」
先生はずっと静かに、僕の支離滅裂に吐き出された言葉を受け止めてくれる。
それが、本当に温かかった。
人の温もりに、初めて触れられた気がする。
久々にアプリを立ち上げたら、残データを見つけたので投稿します。
コメント
2件
大好きだったこの作品 残ってたデータでも投稿してくださって嬉しいです。 テストのやる気があがります!w
浅間さん!?!? って思ったらそういう事だったんですね、!