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第四十六章
痛みなき傷
―失われた感覚と残る想い―
冷たい闇の中を、一つの影が静かに歩いていた。
足音だけが、静寂に溶けていく。
「……」
羅刹は振り返らない。
あの場に残してきた玄武の巫女の姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「……申し訳ありません」
小さく漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
やがて視界の先に、禍々しい瘴気が漂い始める。
その中心には、一人の男が静かに立っていた。
「戻ったか」
低く響く声。
羅刹は片膝をつき、頭を垂れる。
「邪神さま」
羅刹の呼び掛けに邪神は一言だけ返した。
「報告を」
「玄武の巫女への奇襲は成功しました。しかし、仲間に気づかれたため、とどめまでは至りませんでした」
静寂が流れる。
やがて邪神は、小さく笑った。
「十分だ」
その一言に、羅刹は顔を上げることなく耳を傾ける。
「疑念は生まれた。心に生じた綻びは、やがて大きな亀裂となる」
邪神の瞳が、妖しく細められた。
「四神の巫女たちは、互いを支え合うことで力を保っている。その絆を揺るがせば、それだけで価値がある」
「……はい」
羅刹は静かに応じる。
胸の奥に残る僅かな痛みを押し殺すように。
「次の命を、お待ちしております」
邪神はゆっくりと背を向けた。
「焦る必要はない。時は、こちらの味方だ」
禍々しい瘴気が、二人の姿を包み込んでいく。
その頃――。
神殿跡では、張り詰めた空気の中、巫女たちの悲痛な声が響いていた。
「詞葉! 大丈夫!? ひどいケガ……!」
「え? ……あ、そう、ですね……」
詞葉は血に染まった自分の服へ視線を落とした。
腹部には大きな傷が残り、服には穴が開いている。
それでも痛みはなかった。
――お腹に穴が開いているのに、羅刹さまに刺された事実のほうが痛いなんて……。
自嘲するように、小さく笑みを浮かべる。
「詞葉、少し横になって。手当てしたほうがいいよ」
「ありがとうございます。琥珀ちゃん」
「ねぇ、詞葉……。辛いことを思い出させちゃうけど……。羅刹さんに刺された……で、合ってる?」
「はい。私を刺したのは羅刹さまです」
詞葉は蒼紫の手当てを受けながら、静かに答える。
「蒼紫ちゃん、大丈夫ですよ。辛いことでも何でもありませんから」
痛みを失っているからなのか。
その声は、どこまでも穏やかで淡々としていた。
「でも……痛いよね、詞葉」
「本当に大丈夫ですよ、琥珀ちゃん。触覚がなくなってきた時と同じように、痛覚もなくなりましたから」
穏やかな笑顔で答える詞葉。
その笑顔が、かえって琥珀の胸を締めつける。
琥珀はそっと詞葉の手を握り、自分の胸へと添えた。
「痛いよ……。詞葉は痛がってる。ここが痛いはずだよ、詞葉……」
琥珀の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「琥珀ちゃん……泣かないで。私は大丈夫だから」
詞葉は優しく微笑み、そっと琥珀の手を握り返した。
しかし、その笑顔は誰の心も軽くはしなかった。
煉華は黙ったまま手当されたとこを見つめ、蒼紫も何も言えず拳を握り締める。
焚き火の音だけが、静かな夜に響いていた。
信じていた仲間の裏切り。
その傷は、詞葉の身体だけではない。
四人の心にも、決して消えることのない深い傷跡を刻んでいた。
コメント
1件
第46話、読み終えました…。 「痛みなき傷」っていうタイトルが、もう刺さりました。詞葉が「羅刹さまに刺された事実のほうが痛い」って言ったところ、すごく痛かったです。身体より心の傷のほうが重いって、わかる気がする…。 琥珀が詞葉の手を自分の胸に当てて「ここが痛いはずだよ」って泣くシーン、もうダメでした。周りの子たちの反応も全部刺さる。煉華も蒼紫も何も言えなかったんだね。 輪廻さんの作品、こういう「痛みの質」を描くのが本当に丁寧で、すごいなって思いました。続きも読みます。