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祐樹の父、孝作(こうさく)は、警察のキャリア官僚だった。
全国47都道府県、30万人から構成される警察組織の頂点。
一流大学を卒業し、国家公務員総合職試験の難関をクリアした年間十数名だけが採用されるエリート中のエリート。
中でも孝作は群を抜いて優秀で、同期のエリートを差し置いて、飛ぶ鳥を落とす勢いで昇進していった。
警察官僚と言うものは、昇進すればするほど転勤する頻度が高く、祐樹が幼いころは黙ってついて回った母親の聡子は、祐樹の就学を理由に孝作に単身赴任を求めた。
祐樹の成長を見守りたかった孝作はひどく落胆したが、最後には首を縦に振った。
そうして、聡子と祐樹の、母一人子一人の生活が始まった。
片親のそれとは違い、母は祐樹が幼稚園から帰るといつも家にいた。
こぎれいなカーディガンに、ヒダの美しいロングスカート。
エプロンにはレースがついていて、聡子はいつも優しく微笑んでいた。
ゴッホ。
シャガール。
モネ、セガンティーニ。
絵画好きな孝作の趣味で、家の中は複製画で溢れていた。
その深みがあり、まるで窓のように立体感のある質感を、幼かった祐樹は怖がった。
夜中にトイレに行くときも、リビングにはあの異世界に通じるような絵がたくさんかかっていると思うと、水を飲みに台所まで出て行くことができなかった。
中でもアルチンボルド作の『夏』が一番怖かった。
熟年女性の横顔を形作るのは、トウモロコシの耳、ズッキーニの鼻、桃の額。サクランボの唇。
その不気味な笑顔は、ちょっとでも目を離せばこちらを振り返りそうで、祐樹はいつもビクビクしていた。
「なあに?また怖がってるの?」
そんな祐樹を母は優しく抱きしめた。
――母さん。そんなに強く抱きしめたら、エプロンに鼻血がついちゃうよ。
祐樹の声と言葉は、彼女の耳には届かないようだった。
「父さんがこの家で暮らせるようになったら、毎日違う絵を掛けるように言われているの。その時がきたときのために今から絵画に慣れ親しんでおかなきゃね」
―――しかし、“その時“は、ついに訪れなかった。
◆◆◆◆
階下から、ブリキの人形の足音が聞こえる。
ダイニングチェアを引き、クローゼットを開け、祐樹たちを探している音が聞こえてくる。
アリスはどこにいるのだろう。
早く彼が参加者なのか、見極めなければ。
ブリキのピエロが階段を上りだした。
――どうする?
「……花崎さん」
と、緩く閉じたガラス窓の向こう側に、アリスが立っていた。
「……お前、そんなところに突っ立てたらすぐに見つかるぞ」
再度かまをかけてみる。
しかしアリスはその言葉に動じるでも笑うでもなく、こちらを静かに見つめている
「あなたこそ。そんなところにいたら見つかりますよ?」
「………あ」
祐樹は自分の立っているバルコニーを見つめた。
そうだ。
ここが自分の家なら。
鬼があの女なら―――。
小さい子供にとって、一番危険な場所から探しに来る。
初めはキッチン回り。
次に風呂。続いて洗濯機。
そしてその次は―――。
バルコニー。
「………どけ!」
祐樹はアリスを押しのけ、家の中に入った。
でもどうする。
どこに隠れる?
アリスが参加者かどうか見極めるまでは見つかるわけにはいかない。
クローゼットから、尾山がこちらを覗いているのが見える。
―――なんであいつは子供に戻ってないんだよ、クソッ!
「花崎さん、落ち着いて……」
アリスは自分より小さな祐樹を見下ろした。
「あなたはちゃんと知ってるはずですよ。この家で一番、見つかりにくい場所」
「――――」
この家で見つかりにくい場所。
それは―――。
トン トン トン トン トン
階段を鬼が昇ってくる。
ギイ トン トン トン トン
鬼が―――。
気が付くと身体が勝手に動いていた。
廊下に飛び出すと、階段の方を見もせずに、北側の部屋に駆け込んだ。
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バシッ
『やめてえ!!やめてええええ!!』
ドンッ ゴスッ バシッ
『痛い……!痛いぃぃぃぃぃ!!』
割れた悲鳴が、5LDKの新築に響き渡る。
『助けて!助けてぇぇぇ!!』
『どうしてあんたはそうなの!?』
悲鳴よりも大きな怒号がそれを覆い隠す。
バシッ バシッ
『ごめんなさい……!!ごめんなさいいい!!』
――お母さん!!!