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侍から刀が、京から帝が消えた時代。
俺が代わりに『地獄への招状』を受け取るのは、それから十度目の冬を越した後のことだ。
あの日、彼女は俺を哀れみはしなかった。 ただ隣に座り、すっと背中を向けてくれただけだ。
独りで泣き終えるまで俺の惨めさを隠してやるという、彼女なりの、そして世界でたった一つの慰めだった。
明治6年(1873年)
人気(ひとけ)のない、寂れた神社の境内には、乾いた風だけが吹き抜けていた。
傾いた西日が、朽ちかけた本堂の縁側を赤く、血のように染めている。
「……ぐすっ……うぅ……」
そこに、一人の少年が座り込んでいた。
日下部彰悟(くさかべしょうご)7歳。
上等な友禅の着物は泥にまみれ、膝は擦りむけて血が滲んでいる。
頬には、殴られたような青黒い痣。 初めて喧嘩で負けたのだ。
痛みよりも、踏みにじられた名家の誇りが、小さな胸を締め付けていた。
ザッ、ザッ。 砂利を踏む音が近づいてくる。
「……っ!」
彰悟は慌てて涙を拭おうとした。
だが間に合わない。一番見られたくない相手に見られてしまった。
穂積瑠璃羽(ほづみるりは)7歳。
近所に住む幼馴染の少女だ。
「……なんだよ。あっち行けよ……」
彰悟は膝に顔を埋めたまま、悪態をついた。
惨めな泣き顔など見られたくない。
きっと嘲笑われる。そう思って身構えた。
しかし
「…………」
瑠璃羽は何も言わなかった。
「どうしたの?」とも「大丈夫?」とも聞かなかった。
ただ彰悟の背後にストンと座り――くるりと、背中を向けた。 背中を合わせて座る二人。
「……え?」
瑠璃羽は、明後日の方向の空を見上げたまま動かない。
その小さな背中が、彰悟の惨めな姿を世界から隠すように壁となっていた。
「……まだ、見ないよ」
「彰悟くんが泣き終わるまで、お空見てる」
「…………」
彰悟の目から堰(せき)を切ったように涙が溢れ出した。
我慢していた嗚咽が漏れる。瑠璃羽は振り返らない。
ただ静かにその背中で彰悟の弱さを受け止めている。
その体温だけが、冷え切った心を溶かしていくようだった。
(……なんで、こいつは?)
(なんで俺がしてほしいこと、全部わかるんだよ)
誰にも見せたくなかった惨めな自分。
けれど一人ぼっちにはなりたくなかった自分。
その矛盾した心を彼女だけが知っていた。
(……彰悟くんをボコボコにするなんて、財前の野郎、絶対に許さない)
背中越しに伝わる少年の震えに、瑠璃羽は小さな胸を痛めていた。
その時、瑠璃羽の肩に、ふわりと一匹の赤トンボが止まった。
夕日を浴びて、透き通る羽を休めている。
瑠璃羽は、無意識にそっと左手の指先を伸ばし、そのトンボに触れた。
その瞬間。 ジュワッ……。 瑠璃羽の指先で、何かが焼け焦げたような微かな音が鳴った。
「……っ?」
ピクンと震えた赤トンボの体が、一瞬にして茶色く変色し、水分を失って干からびていく。
美しかった羽はボロボロに崩れ、完全に命を失ったトンボは、カサリと乾いた音を立てて縁側の板の上に落ちた。
ほんの数秒前まで空を飛んでいた命が、一瞬で寿命を全うし、朽ち果てたのだ。
「……あ」
瑠璃羽は息を呑み、震える左手を、着物の長い袖の奥へと深く、深く隠し込んだ。
(……気持ち悪い。こんな手、見られたら絶対に嫌われちゃう)
幼い胸に、誰にも言えない呪いと恐怖の種が植え付けられた瞬間だった。
しばらくして、風が木々を揺らした。彰悟の泣き声が止まる。
「……もう、見ていいかな?」
「お……おう」
瑠璃羽がゆっくりと振り返る。
彰悟は目を真っ赤に腫らしながらも、強がって鼻をすすった。
「……はい」
瑠璃羽は着物のポケットから、潰れた駄菓子を取り出し、半分に割って差し出した。
「半分こ」
「……サンキュ」
二人、縁側で並んで菓子を食べる。
砂糖の甘さと涙のしょっぱい味がした。
「……私たち、寺子屋サボっちゃったね」
「……ああ」
「先生に怒られるかな。お父様にも」
誰もいない昼下がりの境内。二人だけの秘密の時間。
そこには子供心にも甘美な罪悪感と、それ以上の開放感があった。
「悪いことしたから……私たち、地獄行きかな?」
瑠璃羽が不安そうに呟く。
彰悟は口元の砂糖を舐めとり、ぶっきらぼうに、でもはっきりと言った。
「……お前と一緒なら、地獄でもいいや」
「え?」
彰悟は顔を赤くして、そっぽを向いた。
「一人じゃ嫌だけど、瑠璃羽がいるなら……地獄も悪くねえってことだよ」
それは7歳の少年が無意識に口にした、一生のプロポーズだった。
瑠璃羽が嬉しそうに微笑む。
「……うん。私も」
二人の影が、古い神社の床に長く伸びていた。
――あの日、俺の世界は、こいつと共にあると決まったのだ。
たとえこの先、本当の地獄が待っていようとも。
それから十年後。明治16年(1883年)4月。
かつて「王城の地」と謳われ、千年の栄華を極めた京の都は今、死臭を放ちながら腐り落ちようとしていた。
明治維新という名の嵐が吹き荒れ、帝(みかど)が東京へと去った。
それは都にとって、魂を抜かれたに等しい出来事だった。
都の人口はわずか数年で三十四万から二十三万へ、約三分の一にまで激減した。
主(あるじ)を失った公家屋敷は雨風に打たれ骨組みを晒し、庭木は伸び放題となり、カラスの巣となっている。
路地裏には職を失った元士族たちが、昼間から酒をあおり、亡霊のように座り込んでいた。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れ、主を失った寺院の崩れた土塀からは、雨水を吸った古木のカビ臭さと、
永い年月を経て木材に染み付いた伽羅(きゃら)や線香の沈んだ匂いが、亡霊の吐息のように路地裏へとにじみ出ている。
だが、その千年の静寂を打ち破るように、一筋の大通りへ出れば風景は一変する。
鼻をつくのは、むせ返るような石炭の煤煙(ばいえん)と、焼けた鉄の鋭い匂いだ。
黒い煙を吐き出す西洋式のレンガ造りの工場群が、まるで巨大な墓標のように、古刹(こさつ)の瓦屋根を見下ろして建ち並んでいる。
工場の壁には「文明開化」「富国強兵」の真新しい張り紙。絶え間なく響く蒸気機関の重低音が、都の地面を微かに震わせ続けていた。
肺の奥にこびりつくような近代化の煤煙と、足元から立ち昇る古い寺院のカビ臭さ。
視線を上げれば、煙突から吐き出されるどす黒い煙が、かつて和歌に詠まれた美しい京の青空を、無残な灰色へと塗りつぶしていく。
美しさと汚さ、富と貧困、過去の静寂と未来の喧騒が、ひとつの鍋でドロドロに煮込まれたような混沌の街。
それが、悲鳴を上げながら生まれ変わろうとしている現在の京都だった。
路地裏で、子供たちが手毬をつきながら歌っている。
「六道の~辻~♪地獄の入り口~♪篁(たかむら)さんが~♪」
通りがかりのシルクハットを被った洋装の紳士が、それを聞いて鼻で笑う。
「フン、いつまでそんな迷信を。これだから京都は……」
紳士はステッキを回し、子供たちを避けるように大股で去っていく。
そんな灰色の街に極彩色の異空間が存在する。
京の名門校・平安院(へいあんいん)学舎。
西洋建築の粋を集めたレンガ造りの校舎は、京都の新しい権威の象徴だ。
昼休み。文明の利器を誇示するような正午の鐘が、選ばれし者たちに『優雅な休息』の始まりを告げる。
高い天井からシャンデリアが下がる豪奢な教室は、フランス製の香水とダージリンの香り、
そして上等な牛肉の脂の香りで満たされていた。
「……非効率だ」
昼時の喧騒の中、氷点下の声が響いた。
教室の中央、窓際の最も日当たりの良い特等席。
そこに座る男子生徒が、片手に英字新聞を持ち、もう片方の手で金無垢の懐中時計を睨みつけている。
新興財閥・財前家の嫡男、財前征一郎(ざいぜん せいいちろう)16歳。
仕立ての良い三つ揃えのスーツを着こなし、鼻梁には銀縁の眼鏡。
その奥の瞳は、感情という不純物を一切排除したかのように冷たい。
「……紅茶一杯持ってくるのに、これだけの時間を要するとは」
「も、申し訳ありません財前様!厨房が混んでおりまして……!」
給仕役の下級生が青ざめて震えている。財前の机の上には、純銀の食器に盛られた、
湯気の立つビーフシチューと、焼きたての白パンが並べられている。学食などではない。
専属のシェフに作らせ、馬車で運ばせた特注品だ。
しかし財前はそれらに口もつけず、冷徹に言い放った。
「君のその無駄な動きが、日本の近代化を遅らせる要因(ボトルネック)だ。……去りたまえ」
「は、はいっ!」
下級生が逃げるように去っていく。
財前はため息をつき、再び英字新聞に視線を落とした。
彼にとって、無能な他者との会話は、酸素の無駄遣いでしかない。
その隣のグループでは、ひときわ派手なバッスル・ドレスに身を包んだ令嬢が、扇子で優雅に顔を仰いでいた。
貿易商の娘、伊集院エリザ(いじゅういん えりざ)、16歳。
巻き毛の髪にはリボンをあしらい、手元にはレースのハンカチ。
まるでパリの社交界から抜け出してきたような出で立ちだ。
「……ああ、嫌だわ。誰か窓を開けてくださらない?空気が澱んでいますわ」
エリザが大げさに顔をしかめる。
「日本の教室はどうしてこう、カビ臭いのかしら。……理解に苦しみますわ」
彼女の言葉は完璧な日本語だが、その端々には、この国の土着的なもの――畳の匂いや、
墨の匂い――を心底見下す冷ややかさが滲んでいた。
「パパに言って、空調設備(ヴェンチレーション)を輸入させようかしら」
取り巻きの女子生徒たちが「さすがエリザ様!」と黄色い声を上げる。
権威と富、そして西洋への盲信。
この学舎は、家柄と金がすべてを支配するカースト社会の縮図だった。
そんな教室の隅。
廊下側の、日も当たらない一番暗い席に、その二人はいた。
まるで光り輝く教室の中で、そこだけ色が抜け落ちたかのような空間。
日下部彰悟(くさかべしょうご)16歳と、穂積瑠璃羽(ほづみるりは)16歳。
彰悟の机の上には、数日前の古新聞が広げられている。
その上にあるのは、梅干しだけの冷たい握り飯が二つ。
米は古く、所々黒ずんでおり、海苔すら巻かれていない。
財前のビーフシチューの芳醇なデミグラスソースの香りが漂ってくる中、
彰悟はその貧相な握り飯を隠すように、急いで口に詰め込んでいた。
(…目立つな…空気になれ。石ころになれ)
彰悟はモソモソと硬い米を噛み締めながら、奥歯を鳴らした。
かつての名門・日下部家は、五年前の父の事業失敗により没落した。
屋敷は人手に渡り、父は蒸発し、残されたのは莫大な借金だけ。
今の自分は、学費を払うのも精一杯の「血筋だけの貧乏人」だ。
ここでは目立ったら終わりだ。嵐が過ぎるのを待つしかない。
隣の席の瑠璃羽もまた、継ぎ接ぎだらけの袖口を隠すように小さくなり、ボロボロの古書を読んでいた。
彼女の穂積家もまた、とある事情で没落した家系だ。
二人の周りだけ、重苦しい疎外感の壁があった。
食後。彰悟がトイレに行こうと席を立ち、財前の机の横を通った、その時だった。
「……邪魔だ」
財前が、英字新聞から目を離さずに呟いた。低い、地を這うような声。
彰悟は足を止めた。心臓が嫌な音を立てる。
「へ?」
「君が僕の視界を横切ると、思考が阻害される。……貧乏神の瘴気(オーラ)でも出ているのか?」
財前がゆっくりと顔を上げ、彰悟を見据える。
その瞳には、人間を見るような温度はない。ただの「排除すべきエラー」を見る目だ。
「日下部……だったか。五年前の事業失敗で夜逃げした家の」
「…………」
「僕の貴重な時間を、君のような非生産的な『存在』で浪費させないでくれたまえ」
教室中の視線が、一斉に彰悟に突き刺さる。嘲笑、憐憫、そして蔑み。
彰悟の拳が、太ももの横でギュッと握りしめられた。
爪が食い込み、血が滲む。胃の底から、熱いものがせり上がってくる。
(……こいつ、マジでぶん殴りてえ)
(その気取った眼鏡を叩き割って、これみよがしな懐中時計を粉々に踏み砕いてやりたい)
はらわたが煮えくり返るような屈辱。名門の誇りを傷つけられた怒り。
だが彰悟は知っている。ここで殴れば、本当に「終わり」だということを。
彰悟は、心の中で冷徹に計算を弾いた。
(……今、こいつを殴れば、俺の価値は『暴力を振るった貧乏人』で確定し、市場から退場させられる。
だが、ここで頭を下げて『無害なゴミ』を演じれば、あいつらの視界から消え、背後から喉元を狙う権利(チケット)が手に入る。……安い投資だ)
彰悟は瞬時に「道化」の仮面を被った。プライドをドブに捨て、将来の利得を最大化するためのポーカーフェイスを。
「ひえぇ~!こりゃ失礼しました財前様ぁ!」
彰悟はわざとらしく大袈裟に飛びのき、ヘラヘラと卑屈な笑みを浮かべた。
腰を低くし、手をもみ合わせる。
「俺みたいなゴミが高貴な視界に入っちまって……
いやあ、申し訳ない!すぐ消えますんで!換気!換気しときますね~!貧乏菌が移っちゃ大変だ!」
ペコペコと頭を下げ、逃げるように廊下へ出る。
背後でドッと笑いが起きる。
「日下部のやつ、相変わらずだな」
「プライドないのかよ」という嘲笑が聞こえる。
廊下を曲がり、人気のない階段の踊り場で、彰悟は壁に頭を打ち付けた。
「……っ」
頬を引きつらせて作った卑屈な笑みの形が、筋肉にこびりついて剥がれない。
喉の奥には、さっき飲み込んだ冷たく硬い米の味が、惨めな鉄の味となって残っていた。
わずか五年前、日下部の若君として当たり前に享受していた「文明の味」が、今の自分を路地裏の野良犬だと嘲笑っているようだった。
彰悟は、震える拳を学ランの奥に隠し、自分の爪が手のひらに食い込むのをただ耐えた。
(……笑え。笑い飛ばせ。俺が死んでも、日下部の家名は死なせない。あいつらに俺の本当の心を一ミリも覗かせてたまるか)
彰悟は鏡を見ずとも、今の自分の目が、ひどく冷たく、濁っているのを知っていた。
一方、そんな彰悟の心中など露(つゆ)知らず――。
財前は「……ふん」と鼻を鳴らし、興味なさそうに懐中時計をしまった。
彼にとって彰悟は、羽虫程度にも記憶に残らない存在なのだ。
その一部始終を、隣の席の瑠璃羽が見ていた。
彼女は一見、怯えているように見えた。長い睫毛を伏せ、華奢な肩を震わせている。
だが。その俯いた顔の影で、彼女の瞳は、冷え切った硝子玉のように財前を射抜いていた。
(……あいつ、地獄に落ちればいいのに)
瑠璃羽は、着物の袖の下で強く拳を握った。爪が食い込む痛みで、激情を抑え込む。
(彰悟くんの貴重な演技を、あんな特等席で浴びておきながら……何その態度?)
(彰悟くんがどれだけの覚悟で、その頭を下げていると思っているの。)
(日下部家の当主が、あんな下衆な笑いを浮かべる苦しみが、あんたごときに分かるの?)
(その眼球をくり抜いて、鴨川の泥水で洗ってこい、秒針メガネ)
彼女の心の中では、猛烈な毒舌の嵐が吹き荒れている。
瑠璃羽にとって、日下部彰悟はこの世のすべてだ。
彼を侮辱する者は、たとえ神でも許さない。ましてや成金の息子など、万死に値する。
そこへ、伊集院エリザの派手なドレスの裾が視界に入ってきた。香水の甘ったるい香りが鼻をつく。
「あらあら。日下部が心配なの? お似合いね、没落同士」
エリザが、ハンカチ越しに侮蔑の眼差しで見下ろしている。
まるで汚いものを見るような目。
「穂積家と言えば……七十年ほど前の当主の『失態』で衰退した一族よね?」
「…………」
「内容は知らないけれど……あなたを見てると分かるわ。きっと、よほど恥ずべき事をしたんでしょうね。血は争えないものですわ」
「……ご、ご迷惑はおかけしませんから……」
(…七十年ほど前の当主? ひいおじい様のこと?何の話?)
瑠璃羽は消え入るような声で答え、さらに深く俯いた。
その殊勝な態度の裏で、彼女は冷ややかに舌打ちをする。
(……かわいそうな人)
(着飾っても無駄よ。彰悟くんは、そんな布きれ一枚で靡(なび)くような安い男じゃないわ)
(いくら香水を振りまいても、あなたの性根の悪臭は消せないわよ)
「目障りよ。化石は博物館にお帰りなさい」
エリザの高笑いが響く。
瑠璃羽は何も言い返さず、ただじっと、机の上の古書の文字を睨みつけていた。
今は耐える時だ。いつか、必ず見返してやる。
夕暮れの鴨川。
西の空が、まるで血を流したように痛々しい茜色に染まり、やがて群青色の夜の帳(とばり)が降りようとしていた。
河川敷を、彰悟と瑠璃羽は一定の距離を保ったまま、無言で並んで歩いている。
ざぁぁ、ざぁぁ……。
周囲に人の気配はなく、ただ鴨川の絶え間ないせせらぎだけが、二人の間の重苦しい沈黙を埋めるように響き続けていた。
川面を渡ってくる風は、昼間の熱気を奪い去り、代わりに夜の冷たさと湿った土の匂いを運んでくる。
ふと土手の上を見上げれば、新しい時代を象徴する近代的なガス灯が、冷たく青白い光を灯し始めていた。
等間隔に並ぶその無機質な光の列とは対照的に、対岸の先、祇園の古い町並みからは、
ぼんやりとした和紙越しの提灯(ちょうちん)の灯りが、温かなオレンジ色の滲みとなって浮かび上がっている。
彰悟は、道端の小石を苛立ち紛れに力任せに蹴り飛ばした。
石は乾いた音を立てて転がり、ドボン、と小さな水飛沫を上げて、冷たい鴨川のせせらぎの中へと没していった。
「……彰悟くん」
「ん?」
「あんな愛想笑い……しなくていいのに」
瑠璃羽がぽつりと呟く。彰悟はぴたりと足を止めた。
「……仕方ないだろ。今の俺たちは『空気』だ。嵐が過ぎるのを待つしかない」
彰悟は自嘲気味に笑った。
「あそこで俺がヘラヘラしとけば、お前への被害も減るだろ?道化になるのは金がかからないからな」
そう。彰悟の道化は、プライドを捨てたのではない。
瑠璃羽を守るために、プライドごと泥を被るための盾なのだ。
瑠璃羽は胸が締め付けられる思いで、ボロボロの学生鞄を抱きしめた。
「……悔しいよ」
瑠璃羽の声が震える。
「私なんかが言われるのはいいの。でも、彰悟くんまで……」
「…………」
「五年前までの彰悟くんは、あんな奴ら相手じゃなかった。クラスの中心で、太陽みたいで……いつだって堂々としてた」
瑠璃羽が、潤んだ瞳で彰悟を見上げる。
その瞳には、かつての「若き当主」としての彰悟の姿が焼き付いている。
「私……あの頃の彰悟くんに戻ってほしい」
彰悟は、バツが悪そうに視線を逸らした。
川面に石を投げる。水切りができず、ボチャンと沈む。
波紋が広がり、夕焼けを歪ませる。
「……無理だよ」
彰悟の声は、枯れ葉のように乾いていた。
「親父が借金まみれで蒸発して、家も失って……今の俺はただの『血筋だけの貧乏人』だ」
彼は自分の掌を見つめた。
ペンだこよりも、内職でついたささくれの方が目立つ手。
「ハッタリかまして虚勢張ったって、金と地位がなきゃ誰もついてこない。……それが現実だ」
帰り道、二人は「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」の前を通りかかった。
現世と冥界の境目と言われる「六道の辻」
夕闇の中、古い石碑が妖しく浮かび上がっている。
境内からは、線香の匂いと共に、ひやりとした冷気が漂ってくるようだった。
寺の門前で、町娘たちが提灯を持ったまま、ひそひそと話していた。
「ねえ、聞いた?夕べ、また『井戸』の中から音がしたんだって」
「やだ、怖い……。やっぱりあそこ、本当に『地獄』に繋がってるのかしら」
「小野篁(おののたかむら)公の伝説だろ?昼は朝廷、夜は地獄の閻魔庁にお勤めってやつ」
「最近、京の都は物騒だからなぁ…。地獄の釜の蓋が開いて、死人が溢れ出してなきゃいいけど」
彰悟は興味なさそうに吐き捨てた。
「……くだらねえ」
「彰悟くん?」
「死人だの地獄だの……そんな迷信で飯が食えるかよ」
彰悟は貧乏ゆすりをしながら、門を睨みつけた。
「幽霊より怖いのは貧乏だ。明日の米の心配の方がよっぽど地獄だぜ。……行くぞ、瑠璃羽」
「……うん」
彰悟の背中を追いかけようとした瑠璃羽が、ふと足を止める。
閉ざされた山門の隙間から、境内の奥が見えた気がしたのだ。
そこには、濃密な闇と、誘い込むような甘い花の香りが漂っていた。
「おい、瑠璃羽。置いてくぞ」
「あ、待って!」
瑠璃羽は小走りで彰悟を追いかけた。二人の足音が遠ざかっていく。
誰もいないはずの境内。
本堂の裏手にある古びた井戸の縁に、一人の男が腰掛けていた。
着流し姿に、無精髭。月明かりの下、無言でキセルを咥えている。
その姿は、生きている人間というよりは、夜の一部が人の形をとったかのようだった。
「――――」
男は長く紫煙を吐き出した。
その煙が、まるで生き物のように井戸の底へと吸い込まれていく。
男は表情ひとつ変えず、音もなく井戸の中へ身を躍らせた。
水音ひとつせず、男の姿が闇に消える。
あとには、ゆらゆらと揺れる彼岸花が一輪だけ残されていた。
この時の二人はまだ知らない。
その井戸の底で、彼らの運命を変える「選抜試験」の準備が、着々と進められていることを。