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穏やかな日々は、少しずつ積み重なっていた。
講義の時間割を把握し、週三日のバイトにも慣れ、食材の買い出しや洗濯のリズムも崩れなくなってきた。
ノートの余白に無意味な線を描く癖も、少し減った。
けれど、”消えた”わけではない。
ただ、薄まっただけだった。
バイト先。二十時過ぎ、商品の入れ替えを終えた頃、ふいに背後から肩を叩かれた。反射的に身を縮めて、声が出なかった。
「あ、ごめんね、ビックリさせちゃった?」
パートの主婦が笑っていた。
「明日、お弁当割引シールの時間、15分早めるって。社員から連絡来てたよ」
それだけだった。
ただの業務連絡。誰も怒っていない。殴りかかってもこない。
それでも、肩の強張りはすぐには消えなかった。 そして、それに気づいてしまう自分がいた。
――なぜ、ここで怖がる?
もう誰にも命令されていない。
誰にも、支配されていない。
けれど、身体は知っている。
「無言の命令」に従う癖を、まだ忘れていない。
夜、アパートに戻って洗濯物を取り込む。
干したシャツの袖が、風で揺れていた。
思い出すのは、高校の教室で無理やり着させられたシャツ。
“兄と同じ制服”を強要され、それだけで、存在が否定された気がした――あのときの感覚。
けれど、今は違う。
このシャツは、自分が選んだ。安いけれど、サイズが合っている。色も、自分で決めた。
ただの衣服。
誰の影も、ない。
そう確かめるように、袖を指でつまんだ。
その夜、眠りは浅かった。
夢を見た。
足元にだけ水がたまっている廊下を歩く夢。
床は冷たくて、靴も履いていない。けれど前に進むしかない。
背後から名前を呼ばれて、振り返ることもできない。声は兄のものに似ていたが、確信はなかった。
目が覚めたとき、喉が乾いていた。汗で首が濡れていた。
「……また、か」
呟いて、時計を見た。午前四時。もう一度寝直すには中途半端な時間だった。
湯を沸かし、マグカップに手をかける。
たったそれだけの動作が、目の奥をじんわりと痛くする。
この生活は確かに「自由」だ。けれど、まだ完全ではない。
今の自分は、“かつての自分”の延長線上にある。
切り離したつもりでも、輪郭だけが残って、時折こうして顔を出す。
過去に縋る気はない。
それでも、なお――
そこから「再構築」しなければ、自分という形を作れない気がした。