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週に三度の朝は、夜明け前から始まる。
窓の外がまだ青黒い空気に包まれているうちに、悠翔は台所の流しに立つ。湯を沸かし、冷えた飯を電子レンジで温め、卵と野菜を油で炒める。自分のために用意された食事というものに、彼は未だ馴染めないまま、それでも「これが普通なのだ」と思い聞かせていた。
「兄の分だけ作る」のが、かつての”当たり前”だった。いつも、見返りのない奉仕だった。自分の食事は――そんなもの、考えたこともなかった。
バイトは、割と続いている。
学生向けのシフトは思ったより柔軟で、店長は口数が少なく、その距離感がちょうどよかった。洗剤や歯ブラシ、光熱費の請求。今までは”自分の責任”だと思ったこともなかった支出に、悠翔はどこか不思議な安堵を覚えていた。
痛みも、焦りもある。
だがそれ以上に、「自分の意思で支払えること」のささやかな悦びがあった。
……だからこそ、夢を見た夜はきつかった。
――どこかで、あの“音”がしていた。
バタン、とドアが閉まる音。
ぴちゃり、と濡れた足が床を踏む音。
「こっち来い」と低く呼ばれる声。
目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかが一瞬わからなくなった。壁は白く、天井は高く、窓の外には街の騒がしさ。だが、それすら数秒の間、現実として脳が認識しない。
胸の奥がひゅっと冷えた。寝汗をかいていた。Tシャツが背中に貼りついて、まるで誰かの手が触れているように思えて身をよじった。
「……ちがう……ここは、ちがう」
布団をはねのけ、手近な水を口に含む。微かに震える手を、見つめているだけで時間が過ぎていった。音も、声も、いないはずなのにどこかに残っている。
どれも過去の断片で、現実ではないと知っていても、体の芯は震えていた。だが、そのすべてが「過去」だということを、ようやく思い出す。 そう言い聞かせるように呼吸を整えて、立ち上がった。
朝の光は優しかった。夢の中の湿った空気を洗い流すように、部屋の隅に差し込む。
冷蔵庫には昨夜買っておいた食材が少し。目玉焼きと、ごはん。
バイトは週に三回。コンビニの夜勤ではなく、書店の品出し。力仕事のわりに給料は高くないが、本の匂いが嫌いではなかった。
光熱費、学食の昼食代、洗剤、歯ブラシ――そんなものに自分の金を使うことが、未だに妙な感覚だった。
「普通」がここまで美しく感じられるのは、きっと自分がそれを知らずに育ってきたからだ。
何かを買うとき、自分のためにお金を使っても誰からも非難されない、取り上げられない。ただそのために働くことに、負の感情はなかった。
ふと、レジ横の鏡に映った自分と目が合ったとき、喉の奥に何かがつかえたようになった。
笑っていたのだ。
自分が、ささやかな日常に、確かに笑っていた――その事実に、思わず目を伏せた。
「……なにやってんだよ、俺」
思い出したのは、自分が「そんな顔」をしていたときに、どんな目に遭ってきたかということだった。
笑う自分を憎んだのは、あの人たちではなかったか。
喜びを、温もりを、持とうとするたびに――引きずり戻されてきたのではなかったか。
だが今、その手は背中に回ってこない。怒鳴る声もない。ベルトも棒も振るわれない。
ひとつ、息を吐く。
それでも身体は、今も音や影に過敏に反応する。
だが、それでも生きている。まだ壊れていない。
そう気づいたとき、再び――自分の笑みに、耐えきれないような気持ちになった。
涙ではないが、胸の奥がきしむように痛んだ。
それでも、今日も大学へ行く。
「普通」に、傷を隠しながら。
どこにも“あの音”がしない現実のなかへ、足を踏み出していく。
日中、誰かが後ろから声をかけてきたとき、悠翔の体は条件反射のように硬直した。
笑顔を作ろうとした口元がこわばり、何かを言おうとした舌が重くなる。
そのたびに――自分に嫌気が差す。
(まだ慣れないのか、俺は……)
そんな思考がよぎるのも、もう何度目かだった。
けれど同時に、洗濯物を干す風景や、レジで客に「ありがとう」と言われる瞬間、コンビニで好きなパンを選べること。それらの断片は、小さな光となって心の底で灯っていた。
誰かに依存したいとは思わなかった。
むしろ、そうなりかけていた自分を思い出すたび、どこかで「許せなかった」。
過去を選べなかったことも、逃げられなかった自分も。
だからこそ――
この小さな、つつましい自由を。
わずかな居場所を。
悠翔は、壊すまいと踏みしめていた。