姉の口から飛び出した『変な人』という言葉。それを聞いた瞬間、俺の中にある嫌な記憶が呼び起こされた。
我が家は飲食店を経営しているので多種多様な人々が訪れる。その中には『困ったお客様』というものも存在する。従業員に対して度を越して横柄な振る舞いをしたり、店内で他の客に絡んだりなどなど……
うちの場合は個人経営の小さな店であるので大半が常連客。そういった対応の難しい客が来ることは滅多にないが、過去に一度だけ……『困ったお客様』なんてレベルでは片付けられない危険人物に目をつけられたことがあった。そいつとの騒動は警察沙汰にまで発展したのだ。揉め事というよりは事件だった。
今の姉の状態……店に変わった客が来店して怖くなり、助けを求めに来たというところか。最近この辺りで目撃されている不審者の噂も、姉の恐怖心を掻き立てるには充分だった。
「また姉ちゃんに嫌なこという客が来たのか?」
事件の主な被害者は姉だった。姉は整った美しい容姿をしているので非常に目を引く。常連客の中には姉目当てで通っている者も少なくない。店の看板娘とでもいうのだろうか。そんな姉のファンたちの中から越えてはいけないラインを越えた者が出てしまった。客と従業員という関係では満足できず、店以外の場所でも姉に接触しようと試みた。所謂ストーカーだ。
最初は自身の想いを綴った手紙を渡してくるといった、そこまで害のないものだった。当然姉はその男を客のひとりとしか見ていなかったので、手紙は丁重にお断りをして気持ちに応えることはなかった。
はっきりと断ったのだ。それなのに男は諦めずに自宅の周りを徘徊したり、姉の外出時に後をつけたりと……行動はどんどんエスカレートしていき、姉を精神的に追い詰めた。そして……最終的にそいつは、姉を無理矢理自分の家に連れ去ろうとしたのだ。姉は必死で抵抗したが成人男性の力になす術なく、そいつの車に乗せられそうになってしまう。
そんな絶体絶命ともいえる状況から姉を救ったのは笹川だ。彼はつきまといを受けていた姉を心配して、定期的に店の近辺をパトロールしてくれていたのだった。
抵抗した際に姉は軽い打撲を負ったので、無傷とはいえないが笹川のおかげで救われた。ストーカーは誘拐未遂と暴行罪の現行犯で逮捕されたのだ。
これは今から3年ほど前……俺が小6の時の出来事だ。
「笹川さんがいなくても、俺がいるよ。俺が姉ちゃんを守るから安心して」
一時期姉は、家族と笹川以外の人間とは目を合わせることすら出来なくなった。人と接する事に恐怖心を抱くようになってしまったのだ。
当時の俺はガキだったから、姉が知らない人に怖い目に合わされたというのに何もしてやれなかった。それがとても悔しかった。
姉は友人の笹川や顔馴染みの客たちの支えもあって、現在は再び店に立つことができるようになった。辛い経験を乗り越えて頑張っている。俺はそんな姉を心から凄いと思うし、尊敬しているのだ。
「いや、違うの。私が何かされたわけじゃなくて……ちょっと変わった見た目の人でね。ほんとはこんなことで騒いだら失礼なんだけど、でも……どうしても怖いって感情が先に来ちゃって……」
姉はだいぶ落ち着いてきたのか、さっきよりもしっかりとした状況説明を行った。なんでも、その客の出立ちがかなり個性的で、食事をしに来る格好には到底見えないのだとか……
人を見た目で判断してはダメだと分かりつつも、冷静ではいられなくなり、俺の部屋まで逃げて来てしまったというわけだ。
いやいや、どんな格好だよ。いくら姉が不審者に敏感だとはいえ、服装が変わってるだけでここまで怯えないだろう。
「変わってるって具体的にどんな感じなわけ? まさか全裸にコートとか着てるような奴じゃないよね。そんなのは個性的とは言わないからね。即通報案件だよ」
しっかり者の姉だけど、時折こちらが驚くような天然ぶりを炸裂させるから要注意だ。警戒し過ぎてはいけないと、判断基準がおかしなことになってる場合もある。
「さすがにそれくらいは分かってます! そんな感じゃなくて……透も一緒に来てくれる? おばあちゃんが心配だから」
「分かった」
姉はすっかり普段の調子を取り戻した。最初に部屋を訪れた時のただ事ではない様子に、またおかしな奴に目を付けられたのかと焦ってしまった。今のところ実害は出てないようだけど……どうするべきだろう。
とにかく、何かあったらすぐに警察に連絡できるよう準備をして、俺もその『変な人』を直に確認してみることにした。
静かにゆっくりと階段を下る。まだ少し怯えている姉を背後に庇いながら1階へと移動した。うちは店舗併用住宅なので1階が店、2階が居住スペースとなっている。内部で繋がってはいるけれど、そのふたつの区間ははっきりと分けられているため、客と鉢合わせするようなことはない。
内部から店舗スペースに行くには厨房を経由して、そこから店内へと続く扉を通り抜ける必要がある。俺と姉のふたりは厨房の扉を半分ほど開いて、そこから顔を覗かせた。位置的に店内全てを見渡すことは出来なかったけれど、幸いなことに遠目ではあるが件の人物の姿を確認することには成功した。
「……なんだ、ありゃ」
口をついて出た言葉は、なんとも呆気に取られたものだった。これは姉が戸惑い、恐怖するのも無理もない。その客の見た目は、それほどまでにインパクトがあるものだったのだ。
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