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人間の押し入れの中での生活が始まってから、何日、いや何ヶ月が過ぎただろう。
**ご飯、トイレ、寝る。**この単調で味気ない生活。
誰と話すわけでもなく、ただご飯だけが定期的に目の前に置かれる。
孤独で無機質で、心底うんざりする生活。そして時折、首をもたげる不安。
―いつか人間に食べられるんだろうか?
気弱になってくると、加速度的に考えは悲観的になってくる。
外にいた時、あの頃は食べ物を探すことが、毎日の重要な仕事だった。
運の悪い日には、まともな食べ物を口にすることもできなかった。
それでも、あの頃はなんて充実していたことだろう。
ノラ猫の世界は上下関係が厳しくて、僕なんか弱いから下っ端だったけど、それでも仲間がいて、思いっきり片思いだけど初
恋のお嬢さんがいて。
今から考えると、本当に”生きてる”って言える毎日を送っていた。
それに比べて今の、この生活は……。
昔のことを考えたって、仕方がないことはわかっているけれど、気が付いたら考えが勝手にそっちの方向に向かっている。
やっぱり人間に食べられるんだろうな……どうしても、ここに返ってくる。
「○△×」
いきなり押し入れの戸が開いて、れれが顔をのぞかせた。僕はいつも腹立たしく思っているのだが、彼女は決してノックをしない。
何もなしにサッとドアを開けるものだから、その度僕は本当にびっくりする。
いつぞやは、トイレにしゃがんでいたとき開けられたんで、もう、びっくりするどころかムッとしたんだ。
―本当に、礼儀を知らない人間だ。
だけど、まだごはんの時間ではないはずだが。
「○△×」
れれは、訳のわからない人間語を喋り、そのままどこかへ行ってしまった。
押し入れのドアを開けたままで。
―いつもと様子が違ってるぞ。まさか今日が、そのXデイだったりして。いや、そんな雰囲気でもなかった。
しばらく考えた後、押し入れから顔を出し左右を確認。周囲に誰もいないことを確かめてから、そっと押し入れから抜け出した。
興味津々。僕はゆっくりと、この家の中を探検をしてまわることにした。
相変わらず足をくじいた亀のようにね。
驚いたことに、僕が寝起きしているこの押し入れの、ふすま一枚隔てた八畳間は、見事な爪とぎ場そのものであった。
そう言えば、あまりにも目まぐるしく色んなことが起きていて、最近爪とぎをすることさえ忘れていた。ネイルケアは、猫に
とって大切なボディイケアの一つなのにね。伸びきった爪を見ながら、思わずため息がでた。
折角だからと、ついでにその隣の部屋まで足を延ばしてみた。
そこはリビングと台所と一緒になっていて、ソファやテレビが楽し気に置かれている。
その向こうには天井から床までの大きな窓があり、ガラスの窓のむこうの小さな庭には、紫陽花やランタナ、そしてムクゲの
木までが所狭しと植えてある。
時間が経つのも忘れて、僕は懐かしい外の世界をガラス越しにじっと見つめていた。
ふと後ろに人の気配を感じた。
―まずい。
振り返ると、いつの間にかそこにれれがいた。
「○△×……」と言ったかと思うと、いきなり僕をヒュッと抱き上げた。
「止めてくれ!」
僕は、思い切りもがいて、れれの腕の中から飛び出した。
それから、思うように動かない足を一生懸命動かして、元の押し入れの中に逃げ帰った。
後ろに、れれの悲しそうなオーラを感じたような気がした。
次の日も次の日も、今までずっと閉じられていた押し入れの戸が、開け放されるようになった。
誰もいないとき、僕は運動も兼ねて部屋の中を探索する。といっても、人間の家の探索なんて、ものの一分もすれば終わって
しまう。
僕は、外にいたときの行動範囲がいかに広かったかを知り、今さらながら、生活が180度変わってしまったことを実感した。
時に僕が部屋の中をのろのろと、およそ猫とは思えないくらいの、のろま歩きで歩いているとき、れれに出会うことがある。
そんな時、僕はできるだけ無視して、すっと、できるだけ遠くに逃げるようにした。人間はでかくて、下から見上げると巨人のようで、本当に怖いんだ。
この前のように油断していると、いつヒュッと抱き上げられるかわからない。
だから僕は、できるだけれれから遠ざかるように努めた。
こんな風にして、僕の
「食べる」
「トイレに行く」
「寝る」
の三つのルーティーンに、
**「のろま歩きをする」**という新しいカリキュラムが加わった。
僕はこの四つのルーティーンを淡々と繰り返す毎日を送っていた。
そんなある日、殺伐とした僕の毎日に、一筋の光かりが差し込んできた。
それは、何の前触れもなく、ある日突然やって来た。
~続く