「先輩、三日もお休みしちゃうとかびっくりしましたよぅ? 課長から先輩がお熱出したってお聞きしてぇー、紗英、先輩のことが心配で心配で……お仕事とか何にも手に付かなかったんですぅ~」
出社するなりゆるふわウェーブの髪の毛を、ラインストーンが散りばめられたネイルの目立つ指にクルクルと巻き付けながら、江根見紗英がクネクネと身体をよじらせた。
今、目の前で紗英が宣言したように、何故か天莉の机に積まれた未処理であろう書類の山を見て、天莉は我知らず溜め息を落とす。
「玉木くーん。病み上がりのところ悪いんだけど……」
総務課長が片手を振って手招きするのを見て、天莉は『今日も残業コースかな』と思った。
これと言うのも、結局のところ自分が体調を崩してしまったのがいけないんだろう――。
***
高嶺尽の家に身を寄せることになった次の日からしばらくの間。
天莉は熱を出して寝込んでしまった。
思えば自宅前で尽と立ち話をしていた際、ズキズキと頭が痛かったのを思い出して。
(あれ、体調不良のサインだったんだ)
心身ともにボロボロ過ぎて、身体からのSOSをキャッチし損ねてしまった。
(自己管理なってないなぁ、私)
尽とひとつ屋根の下とはいえ、ここにいる間は鍵のかかる部屋で比較的安全に寝起きすることが保障されている天莉だ。
でも元々疲弊し切っていた心と身体は、そこまでされても環境変化に付いていけなかったんだろう。
それに――。
思いっきり張っていた気が、尽に甘やかされて緩んでしまったのもいけなかったような気がする。
(ホント、駄目ね……)
実際にはどんな事情があるにせよ、他人様の世話になるのだ。今こそしっかりしておかなければいけなかったはずなのに。
自宅から植物たちと一緒に着替えなどを持ち帰った夜。
猫に惑わされて言質を取られてしまったこともあり、お風呂などを済ませるなり婚姻届にサインさせられた天莉だ。
そのまま畳み掛けられるように入籍までいってしまうことを懸念したけれど、証人欄が埋まっていないことに気が付いて。
(もしかして……すぐには出すつもり、ない?)
婚姻届を前にソワソワと尽の方を仰ぎ見たら、「出すのはキミのご両親への挨拶を済ませたあとだ。婚姻は二人に関わることだし、キミの許可なく勝手に出したりはしないから安心おし?」と、言ってくれた。
それでひとまず肩の力を抜いた天莉だったのだけれど。
「それと……当然だがうちの親にも報告せねばならん。面倒だがこっちも付き合ってくれるかい?」
ついでのようにそう付け加えられて、ピシッと背筋が伸びる気持ちがして。
「あ、あの……。高嶺常務のご両親って」
「人よりちょっと小金を持ってるだけの普通の親だ。そんなに心配しなくていいよ」
出会ってたかだか数時間。
その短いスパンの中で、尽の押しの強さが何となくだけど少しずつ変化してきているのを、天莉は肌で感じている。
その尽が、フッと頬を緩めて『自分の親はただの小金持ちだ』と、どこか意味深長に笑うのを見て、天莉は首を傾げずにはいられない。
彼のハイスペックな暮らしぶりや立ち居振る舞いを鑑みるに、天莉の思う小金持ちと、尽の言うそれの間には大きな隔たりがあるように思えたからだ。
天莉は今までそれほど興味がなくて調べたことなんてなかったけれど。
(高嶺常務のこと、ちゃんと色々知りたい。寝る前に検索してみようかな)
と、どこか霞のかかった頭でぽわんと思った。
それなのに――。
スマートフォンでWebブラウザを開き、検索窓に『たかみ』……まで打ち込んだところで、疲れのためか携帯を握りしめたまま寝落ちして。
そのまま熱を出して寝込んでしまった――。
***
半ば強引だったとは言え、世話になりっぱなしは性分に合わない。
ここにいさせてもらっている間は、せめて家事くらいは頑張ろうと思っていたのに、完全に出鼻をくじかれてしまった天莉だ。
朝方不快感にふと目を覚ました天莉は、喉の渇きに無意識。「水……」とつぶやいた声がやけにしゃがれていることに気が付いて。
何気なくベッドに身体を起こそうとして、全身に鉛を詰め込まれたみたいに身動き出来なくなっていることに驚いた。
頭も割れるように痛むし、何より関節が痛くて全身が悲鳴を上げている。
さすがにこれは熱が出てしまったんだ、と体感的に察した天莉だったけれど、だからと言ってどうしようもなくて。
布団の中でしんどさに耐えていたら、しっかり毛布まで被っているのにゾクゾクとした悪寒がし始めて、歯の根が合わなくなった。
胎児みたいに身体を縮こまらせてそれに耐えていたら、どんどん空が白んできて。
遮光カーテン越しにも夜が明けたと分かったのだけれど。
(起きなきゃ……)
心裏腹。
身体は天莉の意志に反してちっともいうことを聞いてくれない。
そうこうしている内に外からノックの音がして、「天莉、朝だけど……起きてるかい?」と声を掛けられた。
「……ぉ、きて、……す」
その呼びかけに答えたつもりの声は、自分の耳にも聞こえるか聞こえないかの弱々しさで。
ドア越しの尽に聞こえるとは到底思えなかったから。
天莉は少し考えて、手に握りしめたままのスマートフォンに目をやった。
ノロノロと立ち上げてみると、画面には『たかみ』まで中途半端に尽の苗字を打ち込みかけたままのWebブラウザが表示されていて。
それをホームボタンを押して落とすと、昨夜婚姻届を書いた後、交換したばかりの尽の連絡先をそろそろと呼び出した。
力の入らない指で何とか『高嶺尽』の箇所をタップしてコールし始めたと同時、ドアの外でブーブーとバイブレーションの微かな気配がして。
『――もしもし?』
ドア越しと電話越し、重なるように尽の声が聞こえてきた。
天莉は出にくい声を懸命に絞り出して「高嶺常務、ごめ、なさ……」と開口一番謝罪から切り出す。
体調不良で起き上がれそうにありません、と続けたいのにうまく声が出せなくて、いがらっぽさに言葉半ばでケホケホと咳込んだ天莉は、自分の不甲斐なさに泣きそうになった。
だが尽は何かを察してくれたみたいに『ねぇ天莉。部屋のドアを開けるのを許してくれるかい?』と問いかけてきて。
天莉が何とか「は、い……」と答えたら『ちょっと待ってて? マスターキーを取ってくるから』という言葉を残して通話が終了する。
ツーツーと耳に当てたままのスマートフォンから機械的な音が聞こえてくるけれど、通話ボタンをタップしてそれを終了させるのさえ億劫に思えて、そのまま手にしたスマートフォンを枕元に落とした。
と、程なくして外からドアを開錠する音がして、扉が開かれて。
すでにスーツに着替えて完璧な見た目の尽が、部屋に入ってきた。
***
尽は家事などがからっきしダメで、粥を作ったことはおろか、米を研いだことも炊飯器を使ったことさえもないと言う。
天莉が熱を出しているのに気付くや否や、尽が真っ先に連絡したのは医者でも会社でもなく、秘書で 腐れ縁の伊藤直樹のところで。
電話が繋がるなり「天莉が熱を出した。看病したい」と端的に告げた尽に、直樹は開口一番「お前に病人の世話は無理だろう」とばっさり切り捨てた。
結局、ごねる尽に根負けした形。
しっかりマスク完備で尽のマンションへやってきた直樹が、尽にも不織布のマスクを手渡しながら「ごめんね、玉木さん。一応予防だけはさせて」と窓を開けながら申し訳なさそうに眉根を寄せて。
尽は直樹から押し付けられたマスクを不服げに見つめながら、「天莉から感染されるんなら俺は本望なんだがね」とか恐ろしくバカなことを言う。
「立場をわきまえろ。お前に倒れられたら僕が面倒臭い」
直樹に無理矢理マスクを装着させられる尽を熱に浮かされた状態でぼんやり見上げながら、天莉は懸命に『お願いします、常務。伊藤さんに従って下さい』と心の中で念じる。
直樹が言う通り、尽が寝込んだりしたら常務の補佐を務める直樹に思いっきり皺寄せがいきそうで申し訳ないし、何より役付きともなれば平社員の天莉とは抱えている仕事の重要度も違う気がして。
そんな尽を自分のせいで寝込ませてしまったらと考えるとゾッとしたのだ。
「玉木さんも自分のせいでコイツが寝込むのは嫌ですよね?」
直樹に問いかけられて、天莉は声が出せない代わり。必死にコクコクとうなずいた。
頭を動かすたび、こめかみ付近がズキズキと痛んだけれどそんなことは言っていられない。
しんどそうな天莉を見て、「一時的にハウスキーパーを雇うのはどうか」と提案してきた直樹に、しかし尽は首を縦に振らなくて。
「俺が何とかする」
自分が子供の頃から世話になっているという主治医に連絡を取って往診に来てもらう手配をした尽は、いざとなったら『クックアイ』という無料のレシピサイトで粥の作り方などを検索すると言い放った。
挙句、今日は仕事も極力リモートで済ませると言う。
そんな尽に直樹が溜め息混じり。
「好きにしろ」
と折れたのには、天莉が一番驚かされて。
案外高嶺尽と言う男は一度言い出したら聞かないところがあるのかも。
上に立つ人間にはそういう押しの強さがある程度は必要なのかな?と、うとうとと微睡みの縁に立ちながら天莉はぼんやりと思った。
***
「それでね、玉木くん。机の上を見てもらったら分かると思うんだがキミが休んだせいで結構仕事が溜まっていてね――。……って聞いてる?」
寝込んでいた間のことに思いを馳せていた天莉は、訝るような課長の声でハッと我に返った。
「あ、すみません。聞いてます」
まだしっかり見たわけではないけれど、机にたんまり山盛りになっていた仕事の内、純粋に何割ぐらいが本当に天莉自身がしなくてはならない仕事なんだろう?
ふとそんなことを思って、我知らず吐息がこぼれそうになって。
それを懸命にこらえて課長をじっと見詰めたら、少し決まりが悪そうに視線を逸らされた。
「あの……私がお休みを頂いていた間、江根見さんは……」
その表情を見て思わず後輩の名を出した天莉に、課長の眉尻がピクリと跳ね上がって。
「かっ、彼女はっ。分かってると思うけど今、体調が余り良くないからね。キミが思うほど仕事はデキてないかも知れないが……そ、そこも含めて彼女を担当していた玉木くんがしっかりサポートをしてくれないといけないんじゃないか?」
体調がかんばしくないのは病み上がりの自分もなんだけどな?と思った天莉だったけれど、そんなことを伝えたところできっと意味はない。
今まで散々課長から、こんな風にまるで全て天莉の責任だと言わんばかりの口調で押さえ込まれては紗英の尻ぬぐいをさせられてきたのだ。
天莉はこの件に関して課長に抗議する気力を、長い月日をかけてすっかり削ぎ落されてしまっていた。
グッとこぶしを握り締めて不満を抑え込む天莉の背後、にわかにフロアの中が騒がしくなって――。
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