TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

逃げないで、と言われて、

私は反射的に否定しそうになった。


逃げてなんかいない。

大人として、距離を保っているだけだ。

下手に関わって、こじらせるよりは、

静かに通り過ぎる方がいい。


いつもなら、そう思えた。


でも、その日は言葉が出てこなかった。


手首に残る温度が、

思ったより、はっきりしていたからだ。


痛くない。

掴まれている、というほどでもない。

ただ、「ここにいる」と知らせるための接触。


その感触が、

これまで避けてきたものを、次々に浮かび上がらせた。


声を上げれば、

どちらかの側に立たなければならない。


黙れば、

見て見ぬふりをした人になる。


どちらも選びたくなくて、

私はいつも三つ目の道を探してきた。


うまくかわす。

当たり障りなく終わらせる。

誰の敵にもならない位置。


それが、自分を守る方法だと思っていた。


でも本当は、

当事者になるのが怖かっただけだ。


正しいかどうかより先に、

自分の名前がそこに載ること。

「あなたはどう思う?」と

聞かれる側に回ること。


意見を持った瞬間に、

逃げ場がなくなるのを、知っていた。


だから私は、

いつも少し早めに席を立った。

少しだけ忙しい人を演じた。

少しだけ無関心な人でいた。


それが賢さだと、

思い込もうとしていた。


手首の温度が、ゆっくり下がる。


離されるのを待っているのだと、

分かった。


逃げるなら、今だった。


一歩下がれば、

何事もなかったことにできる。

この人も、追ってこない。


それでも、足は動かなかった。


胸の奥で、

小さく、でも確かな音がした。


——ここでいなくなったら、

私はまた、同じ話を自分にする。


仕方なかった。

自分一人じゃどうにもならなかった。

関わらない方が正解だった。


何度も使ってきた言い訳が、

先に並んで待っているのが見えた。


それが、急に、ひどく疲れたものに見えた。


私は、息を吸った。


何か立派なことを言うつもりはなかった。

問題を解決する気もなかった。


ただ、その場に残ることだけを、選んだ。


「……少しだけ」


自分の声が、思ったより低かった。


「少しだけ、聞かせてください」


それで十分だったらしい。


手首から、手が離れた。


その温度が消えるのを、

私ははっきりと感じた。


周囲の会話は、まだ重たいままだった。

空気が変わることもない。

誰かが感謝するわけでもない。


それでも、私は立っていた。


逃げなかった時間が、

確かに、そこにあった。


後で振り返れば、

大した出来事じゃないのかもしれない。


でも、あのとき初めて、

私は自分の足の裏の感覚を、思い出していた。


手首の温度は、もうない。


それでも、

その余韻だけが、

しばらく消えずに残っていた。




チャイムが鳴るまで、まだ少し時間があった。

廊下の奥で、誰かが机を引く音がする。

私は名簿を閉じず、その場に立ったままでいた。

逃げなかった時間は、成績にも記録にも残らない。

それでも、ここに立っているという感覚だけが、

確かな重さを持って、足の裏に伝わっていた。​

この作品はいかがでしたか?

47

loading
チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚