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逃げないで、と言われて、
私は反射的に否定しそうになった。
逃げてなんかいない。
大人として、距離を保っているだけだ。
下手に関わって、こじらせるよりは、
静かに通り過ぎる方がいい。
いつもなら、そう思えた。
でも、その日は言葉が出てこなかった。
手首に残る温度が、
思ったより、はっきりしていたからだ。
痛くない。
掴まれている、というほどでもない。
ただ、「ここにいる」と知らせるための接触。
その感触が、
これまで避けてきたものを、次々に浮かび上がらせた。
声を上げれば、
どちらかの側に立たなければならない。
黙れば、
見て見ぬふりをした人になる。
どちらも選びたくなくて、
私はいつも三つ目の道を探してきた。
うまくかわす。
当たり障りなく終わらせる。
誰の敵にもならない位置。
それが、自分を守る方法だと思っていた。
でも本当は、
当事者になるのが怖かっただけだ。
正しいかどうかより先に、
自分の名前がそこに載ること。
「あなたはどう思う?」と
聞かれる側に回ること。
意見を持った瞬間に、
逃げ場がなくなるのを、知っていた。
だから私は、
いつも少し早めに席を立った。
少しだけ忙しい人を演じた。
少しだけ無関心な人でいた。
それが賢さだと、
思い込もうとしていた。
手首の温度が、ゆっくり下がる。
離されるのを待っているのだと、
分かった。
逃げるなら、今だった。
一歩下がれば、
何事もなかったことにできる。
この人も、追ってこない。
それでも、足は動かなかった。
胸の奥で、
小さく、でも確かな音がした。
——ここでいなくなったら、
私はまた、同じ話を自分にする。
仕方なかった。
自分一人じゃどうにもならなかった。
関わらない方が正解だった。
何度も使ってきた言い訳が、
先に並んで待っているのが見えた。
それが、急に、ひどく疲れたものに見えた。
私は、息を吸った。
何か立派なことを言うつもりはなかった。
問題を解決する気もなかった。
ただ、その場に残ることだけを、選んだ。
「……少しだけ」
自分の声が、思ったより低かった。
「少しだけ、聞かせてください」
それで十分だったらしい。
手首から、手が離れた。
その温度が消えるのを、
私ははっきりと感じた。
周囲の会話は、まだ重たいままだった。
空気が変わることもない。
誰かが感謝するわけでもない。
それでも、私は立っていた。
逃げなかった時間が、
確かに、そこにあった。
後で振り返れば、
大した出来事じゃないのかもしれない。
でも、あのとき初めて、
私は自分の足の裏の感覚を、思い出していた。
手首の温度は、もうない。
それでも、
その余韻だけが、
しばらく消えずに残っていた。
チャイムが鳴るまで、まだ少し時間があった。
廊下の奥で、誰かが机を引く音がする。
私は名簿を閉じず、その場に立ったままでいた。
逃げなかった時間は、成績にも記録にも残らない。
それでも、ここに立っているという感覚だけが、
確かな重さを持って、足の裏に伝わっていた。