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突然地響きのような低く強い音が聞こえ、ユカリは立ち上がって辺りを見回す。よくよく耳を澄ませばそれは男たちの唸り声だと分かり、だとすれば鬨の声だろうと想像した。
ナボーンの男たちとテネロード王国からやってきた軍勢が怪物とぶつかったのかもしれない。名工の打ち鍛えた剣や先祖伝来の槍を構え、獣のように声を振り立てているのだ。戦士の誇りを胸に秘め、主君より授かる勲を夢に見て。
空想上の戦場から戻ってきたユカリは【微笑みを浮かべ】、魔法少女に変身し、逸る気持ちのままに空気を震わせる声の方へと走る。と同時に別の方向から破裂的な轟きが聞こえ、慌てて足を緩め、視線を向ける。
怪物が森の中を飛んでいた。まるでどのような障害もない、大空を舞うように、木々にぶつかりながらも速さに衰えるところはなく、逆に薙ぎ倒しながら、怪物もまた男たちの唸り声が聞こえる方へ飛んで行く。薙ぎ倒した木々が根から倒れ、土をはね上げ、罪なき獣たちが逃げ惑っている。
戦士たちは怪物と戦っているわけではなかったようだ。しかし、確かにそこに争いがあり、怪物が向かっている。
怪物は誘い出されたのだと分かる。その手があったかとユカリは感心した。
一方怪物がやってきた方から少年の、山彦の声も聞こえた。悲痛な声だ。怪物の起こす轟きのせいではっきりとは聞こえないが、怪物を呼び止めているらしい。ユカリは迷ったが山彦を優先することにし、怪物の騒動から逃げてくる獣たちを見定める。何の支えもない場所でこの魔法を使うのは気が引けるが、他に手段はない。
「グリュエー。狐に憑りつくよ」
「どの狐?」
「好きなのを選んで」
ユカリは倒れた拍子に目覚めないように身を屈め、吐息を吐き出す。グリュエーの手助けですぐに狐の意識を乗っ取る。
狐はユカリ本体が無理のない体勢であることを確認すると山彦を探して、荒れる森を駆け抜ける。山彦の声から方向も距離もおおよそ見当がついていたが、走るうちに声が聞こえなくなり、おおよその場所にたどりついてもやはり山彦の姿は見つからなかった。諦めて意識を戻す。
ユカリは立ち上がり、山彦がいるはずの方向を見つめながら考える。
決して誰にも認識されない奇跡、というわけではないはずだ。声が聞こえる範囲まで近づくことはできたのだから。
しかし人間であれば近づくこともできない。動物の体でも人間の意識が操っていると姿を見ることもできないらしい。人間そのものの接近を拒否するということだろうか。だとすれば人間以外の協力を得ればいい。しかしこの森を塒とする動物たちは狂乱状態だ。
微風に撫でられ、ユカリは閃く。
「グリュエーがいるじゃない!」とユカリは声を高める。「何で気づかなかったんだろう」
「グリュエーはいつもユカリのそばにいるよ。気づいてなかったの?」
「この森にいる少年を見つけてここへ連れてこられる?」
「あまり遠すぎなければね」
「お願い」
グリュエーが唸り、落ち葉を巻き上げて木の間を通り抜ける。まるで姿の見えない肉食獣だ。獲物を追うように木々の間を駆け抜けていく。すぐさまひときわ大きな唸りを上げて何かを打ち上げた。
隙間の多い枝葉の間の空に人間が飛び上がる。少年だ。山彦だろう。とうとうユカリにも姿を見ることが出来た。小さな体を風に翻弄され、手足をばたつかせている。
姿を見ることは可能なのだと分かった。さらにどこまで奇跡に逆らえるか、やれるだけやってみるしかない。
「こちらへ!」とユカリはグリュエーに呼びかけた。
しかし高々と空に打ち上げられた少年の体はなぜかユカリと反対方向へと流されていく。そこへ巨大な影が少年に素早く飛び掛かる。蛾の怪物だ。怪物が少年を優しく抱き留め、森の向こうへ落ちて行った。今のは争いと言えるだろうか。少なくともユカリにもグリュエーにも害意や敵意はない。
ユカリは自分の知らない何かが起こっていることに勘づいたが、それを言い表せられるほどの判断材料はなかった。
グリュエーの巻き起こした轟風はベルニージュとその母のいる場所からもよく見えた。裸の枝木の向こうの空に巻き上がる無数の枯れ葉と一人の少年。そしてそれに飛びつく蛾の怪物サクリフ。
ベルニージュの想像していた展開とは少し違ったが、やはりサクリフはユカリの元へ向かわなかったようだ。
持ちかけた取引を無視されたベルニージュの母は呆れた様子で乾いた笑いを零す。
今、ベルニージュが呪文を唱えるのに十分な状況ができていた。その場にいるのはベルニージュと母だけで、他には誰もいない。この状況ならば誰を巻き込むこともない。
それはユカリにかけられた魔術に近いものだ。ベルニージュの母に記憶を奪われた時のことを、ユカリの覚えている限りの呪文と所作から推測し、編み出した。複雑で、より強力な呪文だ。それは人間の心を揺さぶる言葉であり、夢を掴んで引き寄せる言葉だ。深く広い記憶の湖に大風を巻き起こし、さざなみを引き起こす音だ。
「二人きりになるのを待っていたという訳ですか。さすがは私の娘ですね」
ベルニージュの母らしき人物はすぐにベルニージュの魔術に気づいたようだが、全ては手遅れだった。
「ユカリの、ワタシについての記憶、返してもらうから」
「それは構いませんが、気をつけなさいね。ベルニージュさん。魔女シーベラが復活します」
ベルニージュの母の言葉と共に、口から飛び出した記憶は二頭の蝶の姿をしていた。一頭ではなく二頭だ。黄金の翅と真紅の翅。一頭はユカリいる方向へと飛んで行き、もう一頭は真っ直ぐにベルニージュの口の中に飛んで入った。
ユカリのもとへ飛んで行ったのはユカリの『ベルニージュについての記憶』だ。もう一頭の記憶の正体もベルニージュはすぐに理解する。
それはベルニージュの『母についての記憶』だった。
ベルニージュの中で母についての記憶が戻ってくる。数多く失われたはずの記憶の内、母についての記憶だけが戻ってくる。
そしてベルニージュの母のように振舞っていた目の前の人物、魔女シーベラが、自分をベルニージュの母と思い込み始めてからの出来事が、まるで自分で体験したことのように感じられた。
始まりは荒野だった。地平線の彼方まで他に誰もいない。枯草にそよぐ乾いた風。空の果てへ飛んで行く雲が千切れ、くっつき、また千切れる。
気が付けば荒野で気を失って倒れていた。すぐそばには赤い髪の少女が倒れていて、それが自分の娘ベルニージュだということだけが分かった。その娘の母が自分なのだということだけが分かった。他には何も分からなかった。自分は間違いなくその娘の母であるという確信を持っていながら、それ以外の自分は心の中のどこにもなかった。
娘もまた記憶喪失で、自分のことも父母のことも分からなかった。人物ごとに記憶を失っているのならば、他にも忘れている人間がいるかもしれない。
その後、ベルニージュの記憶を取り戻すためにグリシアン大陸中を調べまわった。ベルニージュが記憶喪失そのものに慣れてくると、母子はそれぞれ独自に調べるようになった。
アルダニ地方へ来て、ハウシグの大図書館で魔女シーベラについて調べるうちに、自分はベルニージュの母だと思い込んでいる魔女シーベラなのだと気づいた。
ベルニージュの『母についての記憶』が魔女シーベラを乗っ取り、ベルニージュの母のように振舞わせていたというわけだ。
すなわちそれはベルニージュが『母についての記憶』を取り戻した時、母という強力な味方を子が失うことを意味する。
場合によっては魔女シーベラが、ベルニージュに恨みを持つ可能性もある。何せベルニージュ本人も意図していなかったこととはいえ、精神を乗っ取られ、母のふりをさせられていたのだ。
だからベルニージュの母は魔導書に目をつけた。
セビシャスに憑依していた天命を退ける魔導書、サクリフに憑依している人為を退ける魔導書。その二つを所持すればあらゆる害が退けられ、実質的な不老不死となる。それを娘に与えようと考えた。
つまりベルニージュはしくじったのだった。知らなかったことだが、少なくとも今この場で魔女シーベラを解放するべきではなかった。
目の前にいる女はまだ一言も喋ってはいないが、その佇まいだけ見ても母ではないことを強く意識させられた。
堂々たる母の面影は消え失せ、まるで捕食者から身を隠す小動物のように縮こまって、落ち着きなく辺りを観察している。二度、三度とベルニージュを見るが、他には誰もいないことを四度、五度と確認せずにはいられないらしかった。
「何でこんな所に私はいるんだ」と呟いて魔女シーベラはベルニージュと目を合わせる。「あんた、生きてたんだね。そうだ。ずっと夢を見ていたんだ。あんたの夢で、私はあんたの母のように振舞っていた。だが、はっきりしないね。夢か現か何だか。ねえ、私はどうしてこんな所にいるんだ?」
どうやらベルニージュの『母についての記憶』に憑依されていた間のことは夢のように見ていたらしい。
「ワタシもよくは知らない。それより魔女シーベラ、ワタシのことを知っているの?」
記憶を失う前の自分を。
魔女はつまらなそうにため息をつく。「悪いね。あんたのことなんてどうでもいいから、その質問には答えない。私か、あるいは愛する我が子ジェドについて何か、知っているなら話しな」
油断なく周りを警戒しつつも、傲りに満ちている。とはいえ、息子の祝辞くらい述べてもいいだろう、とベルニージュは思った。
「貴女の息子さんは熱病の呪いにまつわる宿命から解き放たれて、愛する人と結ばれたよ。おめでとう」
魔女は胡散臭そうに疑うような眼差しをベルニージュに向ける。
「何? 誰と?」
「知っているでしょ? シイマさん」
魔女は目を吊り上げて怒鳴り散らす。「あんな小娘と!? それならまだ月の婿にくれてやった方がましじゃないか!?」
「そんなわけないでしょ。ジェドさんは幸せそうだったよ。好き嫌いはあるかもしれないけど、母親なら息子の幸せを祝福したらどうなの?」
ぐつぐつと煮立った湯が急激に冷めるように魔女は平静を取り戻した。
「それもそうだね。ジェドが幸せならそれでいいよ。いずれ時の流れに引き裂かれる二人のちっぽけな一瞬だ。月に永遠に囚われるよりはましというものさ」
さっきと言っていることが違うが、ベルニージュは指摘しなかった。
まさか魔女が自分を助けてくれるはずもなく、どうしたものか、とベルニージュは悩む。この女もまた、子のためなら何でもする。隕石を落とし、怪物を生み出し、疫病を振り撒くような母親だ。このままジェドの所へ向かってもらった方がいいのだろうか。
「それはそうと、少しはっきりしてきた。あんたの母に、いや、あんたに、あんたの記憶に、私は翻弄されたようだね」魔女シーベラは悪巧みを思わせる微笑みを浮かべる。「だがそれもどうでもいい。過ぎたことだ。偉大なる魔法使いとてどうにもならないことはある。それより、そうだ。二つの魔導書。夢の最後にそんな話が出ていた。あらゆる危害を取り除く。不老と不死を手に入れられる。そんな好機をあんたはもたらしてくれたんだ。赦そうじゃないか」
ベルニージュは素早く呪文を唱え、炎の小人たちを生み出し、魔女に飛び掛からせる。しかし魔女は蝋燭にするように息を吹きかけただけで、全て消し飛んでしまった。
魔女シーベラが森の向こうへ視線を向ける。「まずはあいつだね」
ユカリのことなのか、サクリフのことなのか分からない。ベルニージュがけしかけた魔法を事もなげに全て掻き消し、魔女シーベラは森の向こうへ走り去った。