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ユカリはようやく見い出した山彦とそれを連れ去った怪物の飛び去った方向へ駆けだす。
「グリュエー! 追いかけ……いや、ちょっと待って」
ユカリの視界の端で黄金の蝶が飛んでいた。ユカリの見たことのない種類のその蝶は夢から彷徨い出てきたような不思議な雰囲気を纏っている。何かしらの魔法に違いない。警戒して魔法少女の杖を掲げる。しかし蝶はユカリの意識の隙間を縫うようにひらひらと飛んできて、振り下ろされる杖を難なく掻い潜り、魔法少女の口の中へ飛び込んだ。
ユカリの頭の中が沸騰するように、ここ一週間ほどの記憶の泡が湧き出しては破裂する。記憶は零れ落ちていた訳ではなく、読み取れなかっただけのようだ。
ベルニージュを信じたり信じなかったりした日々がユカリの頭に圧し掛かる。時には酷い言葉を投げ掛けていたという事実に心が押し潰されそうになる。
そして、今この場にベルニージュがいないことにようやく気づく。野犬の憑依が解けた後から姿がないことにやっと気づく。
これまでのことをベルニージュは許してくれるだろうか。ベルニージュの母から記憶を取り戻してくれたのもきっとベルニージュだろう。謝罪し、そして感謝しなくてはならない。そうしたくて仕方がない。ともかく記憶を取り戻せたことは喜ばしいことなのだ。ユカリは気持ちだけでも前を向く。
その時、産毛をなぞるように、空気が張り詰める。魔導書の気配が現れた。怪物か山彦に憑依していた魔導書が解放されたということだ。
しかし、そのもつれた想念を掻き消すように、今度は悲痛な咆哮が山にこだました。山彦を連れ去った怪物の咆哮だ。
ユカリは考えたいことを全て脇に置いて、居ても立っても居られず、咆哮の聞こえた方へ駆けだす。咆哮だけではない。何か騒がしい。多くの人の気配を感じる。空想ではなく、本当にもうテネロードの軍団が山に入っているのかもしれない。
ユカリは森を走り抜け、少し開けた場所に怪物を見つけた。より正確にいえばそれは怪物の像のようだった。金属質の赤い像が夕日に煌めいて立っている。人と蛾を合わせたようなその姿で屹立している。節くれだった関節や、細かな体毛までそのままだ。美しい女を模した仮面のような顔で虚ろな瞳は森の奥を見据えている。何かを待ち構えているかのようだ。山彦の姿はない。
「山彦はどこ?」とユカリは思わずその怪物の像に【話しかける】。
像が何事か返答した。人が何かを喋ろうとしているような声は聞こえたが、しかしそれは意味の結ばれない呻き声のようでもあった。自我を失った人間の放つ声に似ている。
魔法少女にしか聞こえない呻き声はますます大きくなり、ユカリが耳を塞ぐと同時に像が膨張する。ユカリは飛び退き、すがるように生き永らえる魔導書に触れ、杖を構える。
次の瞬間、像の背中が破裂するように花開くように割れ、さらに巨大な怪物が像を脱ぎ捨てるようにして出てくる。人間と蛾を混ぜ合わせたような姿は変わらず、禍々しく、美しく、その肉体には凶暴性が秘められ、その翅には憎悪や怨嗟を思わせる眼が描かれている。
人間のような顔もまた怒りか苦痛に歪んでいるようで、餓えた獣のように唸って、ユカリを睨む。
怪物は手近の木の幹を掴むと片手で地面から抜き取り、ユカリの方へ横ざまに振る。しかし木の幹は他の木々にぶつかって折れ、ユカリには届かなかった。怪物は木を捨てて、拳を握り、ぶんぶんと振り回す。まるでユカリには届かない上に自ら捨てた木に足を取られてよろけ、別の無傷な木にもたれかかって、木を折りながら倒れる。その一見柔らかそうな翅がのしかかった木でさえへし折られる。
しかしユカリは無傷だ。やはり怪物に宿っている魔導書の力のために、怪物のあらゆる攻撃が誰にも届かない。またユカリの持つ魔導書が、偶然誰かを巻き込むことさえない。ユカリと怪物はお互いに決して傷つけることができない状態にあった。
しかしこのままでは怪物退治など夢のまた夢だ。どうしたものか、とユカリが考えていると、突然、魔導書の気配が濃度を増した。さらに新たな魔導書が現れた、ということだ。
手に負えない状況に新たな事態が加わり、ユカリが混乱していると今度は少年が、山彦が飛び出してきた。ユカリの頭は事態の変化を追えずにいる。
少年が小さな石を拾い上げ、怪物に投げつける。
怪物はそれに気づいてすらいないが、山彦の投げた石礫が確かに怪物に当たった。掠り傷にも満たないが、間違いなくそれは攻撃であり、起こりえない出来事だ。さきほどの気配は新たな魔導書が現れたのではなく、怪物に宿っていた争いを退ける魔導書が憑依から解放されたのだ。
ユカリにはその理由が分からない。しかし、ユカリを恐怖に陥らせるには十分だった。山彦の怪物に対する攻撃が成立するのならば、怪物の山彦に対する攻撃もまた成立するということだ。
ユカリは必死に、どこかに現れたはずの魔導書を探す。怪物に荒らされた森は木の幹と捲れた土でめちゃくちゃになっていて、見つからない。
少年が怪物に向かって怒鳴るように言う。「なあ、一体どうしちゃったんだよ。怒ってるのか? 犬を殺したことを」
とにかく離れなくてはならない。ユカリは少年の手を取り、駆け出そうとする。しかし、少年の体はまるで地面に縫い付けられているかのように微塵も動かない。そして子供とは思えない強靭な力で振りほどかれる。
「何だよ、お前! 僕のことは放っておいてくれ」そう言って山彦とあだ名される少年は怪物を説得するように語り続ける。
怪物は手あたり次第に辺りを殴りつけ、木々を薙ぎ倒していく。跳ね飛んだ木片が一つとして体に当たらないことからユカリの持つ魔導書はきちんと力を発揮しているようだ。しかし自我を失っているとはいえ標的がこちらに向けば、それは意志持つ者の害意に他ならないだろう。とにかく山彦だけでも逃がさなければならないが、山彦は怪物に今にもすがりつきかねない。
「僕のことを怒っているなら謝るから、許してくれ! お願いだから僕を無視しないでくれ!」
ユカリは山彦に後ろから掴みかかって引き留める。とても子供の膂力とは思えない。振りほどかれまいと必死にしがみつき、怪物から距離をとる。その時、すぐそばの地面に羊皮紙が落ちていることにユカリは気づいて、すぐに拾い上げた。しかしそれは怪物に宿っていたはずの魔導書とは違うようだ。
『セルデュア叙事詩』
彼の者は孤高にして、嘘偽らざる人の王なり。
彼の者は至高にして、天に列する神の末なり。
遥けき山の弧峰にて、戴きしは随一の冠。
幽かな海の孤島にて、抱きしは唯一の眠り。
所有人の上に立ち、然れど人の目に映る事無し。
憚る者の傍に無く、客人の秘密に答える言有り。
遂げぬ宴に興ずる夜も、彼の声が只響く。
何れ静寂に沈む世も、彼の声が唯響く。
斯くして七つの英雄は果て、果たして七つの災厄が現る。
何が何だか分からない。これまでの奇跡にまつわる魔導書と比べて内容が分かりにくい。そもそもこの内容では叙事詩といえないだろう、とユカリは苛立つ。七つの英雄と災厄は魔導書の奇跡と呪いを意味しているのだろうか。
ともかく、まず間違いなくこれは怪物ではなく少年の方に宿っていた魔導書だろう。孤独や一人であることに何度となく言及している。それに、奇跡らしき記述がないのはなぜだろう。ひとりぼっちになる奇跡だとでもいうのだろうか。
怪物を説き伏せようとする少年に、ユカリは魔導書を押し付ける。それはアルダニで初めて手に入れた魔導書、生き永らえる奇跡をもたらす魔導書だ。
「これを握りしめていて、あの怪物から身を守ってくれるから」
ユカリの言葉はほとんど届いていない様子だったが、山彦は怪物に語り掛けることに夢中だったが、羊皮紙は握りしめてくれた。
そしてユカリは新たに手に入れた孤独の魔導書を握りしめる。今までの出来事や、街の噂を勘案すれば、これは人払いができる魔導書だということだ。
それは確かに効果を発揮した。怪物への説得がまるで届かないことか、怪物の咆哮があまりに恐ろしいためか、怪物の殴りつけた岩が木っ端微塵に破砕されたことか、とにかく少年は突然に震えあがり、その場から逃げ出し、街の方へと駆けて行った。
そしてユカリの想像していた通り、怪物には効果がなかった。その魔導書に言わせれば、ユカリはいま一人きりだということだ。
何とか山彦を逃がすことはできたが、しかしこの怪物をどうすればいいのかはまるで分からない。
気が付けば怪物は暴れるのをやめて一点を見つめていた。山彦の逃げた方を見つめていた。
「こっちを見ろ! 私が相手だ!」
ユカリは杖を構えて怪物の前に立ちはだかる。しかし怪物は一つ羽ばたいて浮き上がるとユカリを軽々と吹き飛ばし、山彦の背中を追って飛んで行った。
ユカリは、ささくれ立った木片や粉々になった石礫の散乱した地面を転がって、傷だらけになりながらも何とか立ち上がる。
まるで勝ち目がない。怪物が狙っているのは山彦なのか、あるいはその先のナボーンの街なのか分からないが、このままでは何も守れない。
怪物の飛び去った空には淡い夜と星々が月に率いられてやって来ていた。迫りくる不吉な影にまだ気づかない街の窓辺には温かな灯がともり、忙しくも幸に満ちた一日の終わりを密やかに祝福している。