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よかったぁぁぁ! あ、でもカイルは怪我してるか!
二人の視線の先――。
木陰から、音もなく一頭の獣が姿を現した。
鋭い目を光らせ、身をかがめてこちらの様子を窺っているのは、死を纏ったような雰囲気を持つ純白のオオカミだった。
冬の風景に溶け込むその体色は、一瞬、風に舞う雪と見まがうほどだった。
けれどその白さは、むしろ異質でしかない。普通のオオカミが灰褐色の毛並みを持つことを思えば、この真っ白な個体は明らかに異端だ。
群れからはぐれた理由も、その特異な毛色にあるのかもしれない。
孤独で、飢えた様子のその獣が、牙を剥きながらじりじりとこちらを狙っている。口から覗く舌ばかりがやけに赤く、まるで血の色のようだった。
「っ……!」
リリアンナは息を呑み、ナディエルに身を寄せた。
「動いてはダメです。……リリアンナ様」
ナディエルの声は小さく震えている。だが、その身体は主を守るようにしっかりとリリアンナを抱きしめていた。
オオカミが清白の地を踏むごとに、緊張が高まる。
一歩、また一歩と……じわりじわりと距離を詰めてきて唸り声をあげた。大きく開かれた口。雪を蹴散らす四肢。そのすべてがスローモーションに見えて、ナディエルにしがみ付いてリリアンナが悲鳴とともにギュッと目を閉じたと同時――。
「リリー嬢っ!」
乾いた声が背後から飛び、直後一本の柄付きブラシを手にしたカイルが二人の前に飛び出してきた。
掃除用具の長い柄をまるで槍のように構え、飛び掛かってきた獣をなんとか叩き落とす。
「下がって!」
勢いよく獣の鼻先を打とうとしたその瞬間、オオカミが跳ねた。
その鋭い牙が、カイルの右前腕に深く突き立つ。
「う……あ……!」
噛みつかれた腕を振りほどこうとするカイルの顔が痛みに歪む。真っ白な雪の上にポタポタと真っ赤な鮮血が滴り落ちるのを見て、リリアンナは息を呑んだ。
「カイル!」
オオカミは食らいついたまま頭を振り、咥えた肉を裂こうと暴れる。
カイルは苦痛にグッと奥歯を噛みしめながらも、左手でブラシの柄を握り直し、獣の脇腹を打ちすえた。
だが、利き腕ではなかったからだろうか。決定打にはならなかった。
カイルが手にしているのは武器ではなく、所詮掃除道具だ。加えて、守る相手は二人のか弱い女性。
傷ついた身体で責務を果たすには、あまりにも頼りない。
カイルの攻撃に一度は距離を取ったオオカミが、再び跳ねる。
カイルの足元を狙って低く飛びかかり、咄嗟の防御にもかかわらずその膝を裂いた。
それでもカイルは一歩も退かない。
「おふたりとも、早く……お逃げください……!」
その叫び声が響いたとき、オオカミはカイルの隙をつくように飛びのくと、目を光らせながらリリアンナに狙いを定める――。
「来ないで……!」
ナディエルとリリアンナは身を寄せ合い、恐怖に固まったまま立ち尽くした。
いつもは気丈なナディエルが、腰を抜かしたようにへなへなとその場へへたり込む。
リリアンナは咄嗟にナディエルの前に立ち、両手を広げてそんな彼女を庇おうとしたけれど、震える膝は今にも崩れそうだった。
足元からナディエルの「お嬢様、私のことは置いてお逃げ下さい」という声が聞こえてくるけれど、そんなお願い、聞けるわけがない。
オオカミが腰を低める。
きっと次の瞬間にはばねのように跳躍してリリアンナの肉を引き裂くだろう。
自分にはどうしようも出来そうにない運命に、リリアンナは目を閉じて、ナディエルに覆い被さるようにうずくまった。
と、その瞬間。
空気を裂く風のような気配とともに、一陣の風が通り抜けた。
何かが切り裂かれる音とともに、雪の上に液状のものが飛散したような音が響く。怨嗟のこもったオオカミの断末魔が聞こえてきて、恐る恐る目を開いたリリアンナの視界に、長身の男の背があった。
血を滴らせる剣を手に、オオカミの亡骸の前に立つその姿は――。
「ランディ……!」
声にならないほどの安堵が、リリアンナの胸の奥に溢れた。