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社畜。
それは会社に身も心を全部差し出して、結局ボロボロになった姿のこと。私、伊藤里奈もその典型だった。毎朝一番乗りで会社に入って、終電ギリギリまで残って、上司の無茶な指示にも「はい、了解です」って普通に返事してた。休日出勤の連絡来たら「了解です!」って即返信。これが私の普通だと思ってたから。
ある日、鏡見てびっくりした。目が死んでる。頰がへこんでる。髪はパサパサ。「……あれ、私?」って呟いたら、涙が勝手に落ちてきた。あ、もう無理だなって、そこでやっとわかった。
それからは淡々と準備した。未払いの残業代、全部記録。パワハラの証拠、録音もスクショも。上司の経費の怪しいとこも、ちゃんと押さえた。社畜だって、ずっと我慢してるだけじゃない。我慢の先で、ちゃんと反撃の準備ができるんだ。
私はこの会社から抜け出す。奪われた時間、健康、普通の笑顔。全部、きっちり返してもらうよ。伊藤里奈の逆襲、スタート。私をここまで追い込んだ人たち。そのツケ、ちゃんと払ってもらうからね。
◇◇◇
「おい!この資料、午前中に全部まとめておけ!午後の会議で使うからな!」
デスクの上に山と積まれたコピー用紙。これをホチキスで閉じ合わせろと言うのか。せめて昨日、言ってくれれば良かったのに――と田辺チーフの背中を恨めしく見た。
いつもこうだ。急な指示、理不尽な期限、無茶な量。「了解です」って口では言ったけど、心の中ではため息が3回くらい出た。午前中って、今何時だっけ。時計見たら、もう9時半。残り時間3時間ちょっと。これ、普通の人間なら無理だろって思うけど、私、伊藤里奈は社畜だから、黙って手を動かすしかない。
ページをめくりながら、指先が少し震えてるのに気づいた。昨日も一昨日も徹夜気味で、睡眠時間は合計5時間くらい。コーヒー淹れてる間に、チーフの声がまた頭の中でリプレイされる。
「お前が一番早いんだから当然だろ」って。
当然? 私の人生が会社のために当然消費されるのが当然なのか。資料を揃えながら、ふと自分の手を見る。爪が少し欠けてる。これ、いつからだろう。気づかないうちに、こんな風にすり減ってる。でも、もういい加減にしようと思った。この山を片付けるのは今日で最後。
だって、全部終わらせたら、私はこのデスクから消えるんだ。未払い残業の計算表はもう完成してる。パワハラの録音ファイルも、クラウドにしっかり保存済み。チーフの不正な経費申請の証拠だって、漏れなく揃えた。これを午後の会議で使う資料の中に、そっと混ぜておくのも悪くないかもね。山を崩しながら、静かに笑った。「了解です」って言った顔は、もう作り笑いじゃ済まない。本物の、冷たい笑み。田辺チーフ、午後の会議、楽しみにしてて。あなたが散々私に押し付けてきた「当然」のツケ、今日、きっちり返してもらうから。
――とか格好つけても出来るわけないんだけどね。
私のデスクの中には退職届の白い封筒が眠っている。いつ田辺チーフに手渡そうかと3ヶ月ほど悩んでいる。彼の冷たい銀縁眼鏡の奥の、鋭い視線を目にすると、引き出しを開ける勇気が萎えてしまう。きっと今日も、その封筒を手渡すこともなく終電に揺られるんだろう。いつもそう。朝起きて会社に行く。指示に従う。資料をまとめる。残業する。家に帰って寝る。翌朝また同じことの繰り返し。
退職届を書いた日から、もう3ヶ月。
最初は「今日こそ渡す」って思ってたのに、チーフがデスクに近づいてくるだけで手が震えて、引き出しの取っ手に指がかからない。眼鏡の奥の目がこっちを見ると、まるで「まだ辞めたいなんて言ってるのか」って言ってるみたいで、喉が詰まる。今日も午後の会議が終わったら、チーフは「伊藤、残れ」って言うだろう。そしたらまた残業。そしたらまた終電。そしたらまた封筒は引き出しの奥で埃をかぶる。情けないな、私。
「どうせお前は、コピーとお茶汲みしかできないんだ」
今時、そのセリフが似合うのは営業課長くらいだ。私には「伊藤里奈」という歴とした名前がある。昭和生まれの課長にとって、女性社員はその程度だと思っているんだろう。エクセルも使えないおじさんが何を偉そうに――机をひっくり返してやりたい衝動に駆られるが、そこはグッと我慢。深呼吸して、いつもの作り笑顔を貼り付ける。
「了解です、課長」って声は出てるけど、心の中では別の言葉がぐるぐる回ってる。
コピーとお茶汲み? だったら今まで誰がこの部署の資料を全部まとめ上げて、ミスなく提出期限を守って、課長のミスをフォローしてたんだっけ。誰が深夜まで残って修正を繰り返して、朝イチで完璧なプリントを揃えてたんだっけ。全部、私だよ。課長が「俺の指示が完璧だから」って胸張ってる成果のほとんどは、私が尻拭いした結果なのに。
エクセル? 私はVLOOKUPからピボットテーブル、Power Queryまで使いこなしてる。課長は「セルが青いとこクリックしたらなんか変わる」くらいの認識で満足してるくせに。机をひっくり返したい衝動を抑えながら、今日もお茶を淹れて持っていく。湯気が立ち上るカップを課長のデスクに置いた瞬間、ふと目が合った。課長は「ふん」って鼻で笑って、スマホをいじり始めた。ありがとうの一言もない。いつも通り。
でも、もう我慢の限界はとっくに超えてる。引き出しの奥に眠ってる退職届は、まだ渡せてないけど、代わりに別のファイルが育ってる。課長の不適切発言の録音リスト。セクハラまがいの言葉を何度も繰り返した証拠。給与明細と残業時間の乖離を示すデータ。全部、時系列で整理してある。コピーとお茶汲みしかできない女が、こんなに細かく証拠を集められるなんて、課長は想像もしてないだろうね。
今夜も終電で帰るけど、明日の朝、このデスクに座るのは最後かもしれない。課長がまた同じセリフを吐いたら、その瞬間にファイルを突きつけてやる。「どうせお前は」って言葉を、そっくりそのまま返してやるよ。伊藤里奈は、コピーとお茶汲みしかできないんじゃない。ただ、あなたがそう思い込ませて、都合よく使ってただけ。もう、その幻想は終わり。逆襲の準備は、完璧に整ってるから。
――て、そんなこと出来るのドラマの中の話だよ。
今日も終業のチャイムを聞きながらエナジードリンクのプルタブを開ける。私の人生って、なんなんだろう。カチッと音がして、炭酸の泡がシュワッと上がるのを眺めながら、ぼんやり思う。
会社を出たらコンビニ寄って弁当買って、家に帰ってシャワー浴びて、ベッドに倒れ込む。それで終わり。明日また同じことの繰り返し。逆襲? 証拠集めて倍返し? そんなの、ドラマの主人公がやることでしょ。私みたいな普通の社畜が、そんなカッコいいことできるわけない。
課長の「あれはコピーとお茶汲みしかできないんだ」って言葉が、まだ耳の奥で響いてる。チーフの「当然だろ」って上から目線も、全部頭の中でリピート再生されてる。退職届の封筒は引き出しの奥で3ヶ月以上眠ったまま。今日も触れなかった。触れられなかった。
エナジードリンクの苦い味が喉を通るたび、胸の奥がチクチクする。もう疲れた。疲れすぎて、怒る気力すら残ってない日もある。でも、ふと気づく。今日も資料をまとめて、会議を支えて、誰かのミスをカバーして、私はまだここにいる。誰も褒めてくれないけど、誰も代わりにやってくれない仕事も、私がやってる。ドラマみたいに派手に机をひっくり返したり、証拠をドンッと突きつけたりはできないかもしれない。でも、少しずつ、少しずつ、抜け出す準備はしてる。いつか、このエナジードリンクを飲みながら「今日で最後」って思える日が来るかもしれない。来なくても、せめて今日よりはマシな明日が来るように、少しだけ動いてる。私の人生、なんなんだろうって思うたび、プルタブの音が少しだけ軽く聞こえる気がする。
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雫石しま