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迷わずの魔導書を見つけた後、ユカリと最初に再会できたのはネドマリアだった。
ワーズメーズが街として形を成して以来、常に濃く重く籠っていた魔法が消え去り、初めて溌剌とした爽やかな朝がやってくる。輝かしき旭日は再誕した街に祝福を贈り、街もまたそれに応えるように新たな衣を身に纏い、喜びを歌い上げた。この迷宮都市に巣食っていた魔性たちは呪いの言葉を吐き散らす気力も失い、夜に縋りつくようにして騒々しく撤退した。歪な形の建築物と魔法の残滓が残した靄は、真っすぐに伸びる陽光に慈悲なく払い除けられ、綺麗さっぱり洗われた。
ユーアを模した屍人形が崩れた後、ユカリは当てどなくワーズメーズを彷徨っていた。
魔導書が失われ、迷いの呪いが取り払われてなお、この街は迷宮だった。魔導書の力にかこつけて、微塵の都市計画もなしに無秩序に家を建て、道を引いた結果だ。妖精や幽霊でさえ道に迷っている。妖精の環が描かれるような暗い湿気た森の奥にたどり着くのも一苦労で、冥府に流れ込むルミスの川の水音もここからは聞こえない。
ユカリはおっかなびっくり街を彷徨っていた。確かに迷いの呪いは払われているのだが、一挙手一投足が原因で何が起こるか分からないというワーズメーズの街そのものの不確かさに対する不安な感覚はまだユカリの中に残っていた。魔導書を使おうにも会いたい人はいるが、行くべき場所は分からない。
蛇の鱗通りにある垂直軸の風車小屋の角を曲がるのが何度目なのかユカリに分からなくなった時、ネドマリアの方から見つけてくれた。憔悴しきったユカリをネドマリアは適当な公園に連れて行き、長椅子に座らせて休ませた。昨日、あれだけ街を歩き回ったのに、ユカリが一度も見たことがない場所だ。建物の隙間に無理やり押し込めたような佇まいの公園だ。
何があったのかユカリが簡単に説明すると、隣に座ったネドマリアは今にも失神するのではないか、というほどに興奮していた。何か信じられないものを見るような目で、ユカリと魔導書を交互に見る。
「魔導書? 魔導書を見つけたって? つまりこの街の、ワーズメーズの迷わずの魔法の魔導書を?」
ユカリはネドマリアによく見えるように魔導書を広げる。
「そうです。心から笑えば迷子にならない魔法が発動する例の魔導書」
ネドマリアが見開いた瞳は目の前の紙切れに対する羨望で染まっている。
「よく見てもいい? 見るだけ。いや、分かってる、知ってる、魔導書に書き記されている文字は未解読の読めない文字だってことは。でも見てみたい。触らないから。お願い!」
「別に触っていいですよ」ユカリはネドマリアに魔導書を手渡して言う。「見てもいいですし、読んでもいいです。なんなら翻訳しますのでなんでも聞いてください」
ネドマリアは震える手で捧げ持つようにして、魔導書を食い入るように見つめる。初めてビゼに魔導書を見せた時と同じような反応だ。
「そんな風に興奮するものなんですか?」とユカリも魔導書を覗き込みながら言った。「魔導書なんて普通怖くて話をするのも嫌がられるのに」
ネドマリアは魔導書から少しも目を離すことなく答える。「そうね。一方で世界中の魔法使いが探求し、発見すれば輝かしい栄誉を得て、国はどのような財宝よりも厳重に取り扱う。そういうものよ。ユカリは意外と救済機構に毒されているのね」
少し手厳しい意見にユカリはぎくりとした。言われてみれば、と思い返す。この街は救済機構の寺院もなければ、僧侶を見た覚えもない。一方で土着の神殿も見た覚えはないのだが。
確かに、とユカリは自分の魔導書観が救済機構の教えに基づいていたものであることを自覚した。オンギの村に寺院はなかったが、度々よその村から僧侶が来て説法した。ユカリの魔導書観はそうやって形成された。魔法少女の魔導書を手に入れて、魔導書収集の使命を思い出した時、ユカリの中の魔導書そのものへの抵抗的な感情はほぼ消え失せた。しかしその時の忌避感はまだ記憶している。
それは定期的に訪れて村の書物を検査する焚書官に何度も魔導書災について聞かされてきたつまらない思い出が原因だ。そうして根付いた恐怖もまだまだ残っている。
「やっぱり読めない。さっぱり分からない。一体何て書いてあるのかな。……え?」そう言ってネドマリアは徹夜明けのユカリの眠たげな顔を驚きの表情で見る。「今、翻訳するって言った?」
「少し前ですけど、翻訳するって言いました」
「読めるの?」
ユカリは自分自身何がおかしいのか分からないけれど、笑った。徹夜で少し頭が沸いているようだ。
「読めます。でも完全ではないかもしれません」
頭がぼうっとしてやっぱり何がおかしいのか分からないままユカリは笑う。瞼が重くて、ネドマリアの方を見れない。
「翻訳して欲しい、今すぐにでも。けれど、とりあえず睡眠だね。今ユカリに必要なのは。眠るといいよ。私に任せて」
ネドマリアは宿の一部屋を借りてくれて、ユカリは昼過ぎまでぐっすりと眠ることが出来た。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
少女が一人、寝台に仰向けに横たわり、天井に向けて手を伸ばしている。手の甲には火傷。少女はそれを見て微笑む。心の中の友達が泣いて、少女は友達を慰めた。昔と違って少女は心の中の友達を慰めるのが得意だった。
数日の後、パディア、ビゼ共々、ネドマリアの自宅に招待された。非常に優美な邸宅だった。蔓を模した高い門扉の向こうには夏の精を引き連れた陽光が降り注いでいる。彼らは与えられた使命に従い、広い庭の緑の芝生で草いきれを囃し立て、剣を持つ厳めしい女神が水浴びをする大理石像の噴水で玉のような白い泡を蹴立てている。
熱を運ぶ一陣の風がそこに吹き込む。グリュエー自身に自覚は無いようだが、迷いの呪いを払う前と後でははしゃぎっぷりが違った。
館を形作るこげ茶色の煉瓦は優雅に捻じれ、一つとして同じ形が無い。それでいて館自体には少しの歪みもなく整然と積み上げられている。壁を這う木蔦はただ自由に伸びるに任せたとは思えない調和的な幾何学模様を描いている。この館は他の山積み建築とは一線を画しているにもかかわらず、おかしな街にきちんと溶け込むおかしな佇まいだ。
何より、地面の上に建っているのが素晴らしい、とユカリは心の中で称賛した。
ネドマリアに案内されて、邸宅の中を進む。意匠を凝らした金文字の呪文が天井に連なっている。ユカリには一つも読み取ることはできないが、それはつい先日まで街を彷徨っていた数々の呪いを除けるためのものだ。それらは白塗りの壁や板張りの床にも仕込まれている。招かれた部屋に敷かれた豪奢な絨毯とて例外ではなく、染色職人の祈りと、数多の手織り女の歌が経糸に緯糸に込められている。
案内された客間の、繊細な蔓模様の彫刻が施された机の上には、沢山の果物と菓子があった。果物はネドマリアと買いに行ったような不可思議なものではなく、瑞々しい梨や葡萄、柘榴が山と積まれている。菓子もまた色とりどりで、蜂蜜をかけた揚げ菓子や乾酪の香りの茹で菓子、無花果の葉に包まれた蠱惑的な香りの何かがユカリを誘惑する。
ユカリはパディア、ビゼをネドマリアに紹介した。初対面だったが、ネドマリアは二人の魔導書探求の冒険については知っているようだった。ネドマリアがパディアとビゼに向けた好奇心をユカリは遮る。これから起こりうる懸念について話しておきたかった。
ネドマリアは渋々と長椅子へ三人を促した。
「私が迷わずの魔導書を手に入れて、この街の人々はどう思うでしょうか?」と三人の大人たちに囲まれて、ユカリはおそるおそる尋ねた。
「大丈夫よ。ユカリが恐れているようなことにはならないよ」とネドマリアは安心させるように言った。「魔導書発見は偉業だよ。この街の魔法使いたちならそう考えるね。きっと祝福する、もろ手を挙げてね。そうじゃない? むしろそうじゃないといけない。魔法と不思議、数多の神秘と遅々とした進歩に生涯を捧げる魔法使いならね」
「でも多少の嫉妬はあるのではないかしら?」とパディアは懸念を表明する。「魔法使いとしての日が浅い私には分からないけれど、魔法使いというのはこと魔導書に関して冷静さを失う傾向にあると言えるもの」そう言うとビゼの方に視線をやり、彼女の師匠は身をすくませた。ネドマリアの方は、それが当然だとでも言いたそうな顔だ。
「否定はしない」とネドマリアは認める。「結局はね。人間ですから、いくら不思議や神秘の求道者といっても。確かにその通りだよ。警戒して損はない。命知らずを除けば、ただの魔法使いが魔導書使いに喧嘩を売ることなんてまずないけれど、逆に言えば魔導書使いを警戒しなくてはね。より喧嘩を売ってくる可能性が高いんだから」
ネドマリアに促されてユカリは揚げ菓子を食べる。甘い香りが口の中に充満し、幸福の蜜が湧き出てくるような思いだ。ビゼもパディアも食べたが、幸福に顔を緩めているのは自分だけだと気づき、ユカリは気を引き締める。そして不安そうな面持ちで身を乗り出した。
「そもそも迷わない魔法では喧嘩の道具にならないと思いますけど。逃げる時には重宝しますが」
いつか地下迷宮を探検する時はあえて置いていきたい、とユカリは思った。
「そりゃそうよ。でも、そういう話じゃなくて……」と言ったところで、ネドマリアは首をかしげる。「貴女、ユカリ、魔法使いじゃないの?」
「魔法使い、といえばそうなんですけど。つまり、えっと、魔法の探求を行っているので」と言ってユカリは三人の魔法使いをおそるおそる眺める。お前は魔法使いなんかじゃないと言われる心配はなさそうだ。「でも本当のところ、この旅を始めるまではただの狩人、でした。ちょっと魔法使い見習いみたいなことはしてたんですけど」
ネドマリアは何かに納得した様子でしきりに頷いていた。
「うんうん。そうだよね。自分の生涯でこんなことが起こるなんて思わない。魔導書を見つけることになるなんてね。大半の魔法使いだって夢に見る程度だよ」
その通りだ、とユカリは思った。少し慣れてきたけど、とも思った。
ネドマリアが話を続ける。「いい? 魔導書には固有の力がある。その力は多種多様で種々雑多。ユカリが手に入れたような特別な術を使えるもの以外にも、魔法の道具を扱うもの、魔法の動物を使役するもの。色々ね。でもそれとは別に魔導書は共通して所有者に魔法の力を与える。魔法に対して感覚を鋭敏にさせ、時にはより普通の一般的な魔法を強力なものにする。そういう力を高める物品を一般的に触媒というんだけど。つまり触媒としても桁違いの存在なわけだよ、魔導書は。ユカリはどういう魔法が使えるの?」
「はい。えっと」と言ってユカリは指折り数える。「いくつかの薬草の煎じ方とか、放った矢が獲物の息の根を止めるおまじないとか、窓蓋ががたつかないようにするおまじない、とか」
そこまで言って、ユカリは顔を赤くする。自分より遥かに高度な魔法を扱う人々の前で何を言っているのだ、とユカリは恥ずかしくなった。
ネドマリアは微笑みを浮かべてユカリを覗き込むようにして言う。「もし今のユカリがね。つまり、その魔導書を触媒として使うとしてだよ。例えば、窓蓋ががたつかないようにするおまじないを使うとどうなると思う?」
「とてもがたつかない、ってことですよね?」と何の捻りもない答えをユカリは繰り出す。
「その通り。投石機でもがたつかせないでしょうね」とネドマリアは言った。
「窓以外全て壊れてしまうけどね」とビゼが言った。
ユカリは驚いて、そして全身の毛穴が開いたような気がした。
「そんなに、ですか?」
ネドマリアは大きく、そして神妙な表情で頷く。
「うん、本当だよ。もちろん魔導書そのものに記されている魔法はさらに別格。あれらはそもそも魔導書を触媒にしなければ使えないとされている。さらに一線を画す存在なんだね。魔導書を触媒にすると新人の粗雑な呪術が見違えてしまう。熟練の魔法使いの洗練された呪術に対抗、いや圧倒できるものになるだろうね」
ユカリは大きな感嘆を漏らす。まだまだ自分は魔導書を見くびっていたのだと気づく。そしてユーアの末恐ろしさを実感した。つまりユーアは魔導書という触媒なしに魔導書の魔法を取り扱っているということだ。
「話を戻すけど」と、パディア。「魔導書を得たことはともかく、この街から迷いの呪いを取り払ってしまったことはどうなの? 何か問題は起きていないのかしら? ずっと迷いの呪いがあるのが当たり前だったわけでしょう?」
「あれは、そうね」と言うネドマリアの表情は寂しげだった。「個人的にはちょっと残念。もうあの混乱や騒動は無くなってしまうんだね。仕事も無くなっちゃったし」
「ごめんなさい」とユカリは思わず謝る。あの時は無我夢中で、ネドマリアが公の仕事として呪いを調査していることを忘れていた。仮に覚えていたとしてもユーアにたどり着くために呪いを取り払う他なかったが。
「私こそごめんなさい」とネドマリアも謝る。「子供にさせていい気遣いじゃないね。自慢じゃないけど仕事は有り余ってるから」
「貴女が個人的にどう思うかは置いておくとして、ネドマリアさん」パディアは少しだけ不機嫌そうに言う。「この街の人々はどう思っているのかしら? 貴女同様に迷子になれなくて残念に思っている?」
ネドマリアは気落ちした様子で首を振る。
「実際の所、気にしていない様子だね、大半の市民はね。迷わずの魔導書を本気で探している人なんていなかったし、現代において迷いの呪いを街に追加していた人もほぼいない。禁止されていた訳でもないけど。まあ、最初は困惑もあるかも。でも慣れるでしょ。本来は街ってこういうものなんだし。かといって何も問題が起きないとも思えないけどね。何と言っても長年やってきたことが急に無くなってしまうんだから」ユカリの表情を見て、ネドマリアは付け加える。「でも構うことないわ。さっきも言ったけど、魔導書を発見した大事件に比べたら些細なことよ。魔導書をこの街から持ち出すというのならともかく。ワーズメーズ全体で祝福してあの日を祝日に決めてもいいんじゃない?」
ユカリもビゼもパディアも言葉が詰まる。その沈黙にネドマリアが察する。
「もちろんその可能性はかなり高いと思っていたけど。魔導書を持ち出すつもりなんだね? 別に責めるつもりはないけど、快く思わない人もいるだろうね。ということは、だ。そもそも貴女たちがこの街に来た理由を尋ねるつもりだったんだけど。その手間が省けた。魔導書探求の旅はまだ続いているんだね? すると次に貴女たちがすることも分かってくる。この街のもう一つの魔導書……か」
「理解が早くて助かるけど、僕たちのことは誰にも黙っていてくれないかい?」とビゼが言葉を発する。その言葉にはユカリの知りえない強力な力が込められていた。人類最初の話し言葉と共に発せられた魔法的な響きや南方の閉ざされた国の『枷』や『閂』を意味する言葉との掛詞、鎌首をもたげる蛇という解釈を含んでもいる。
「やめてよ、もう」とネドマリアが呆れた様子で言った。「責めるつもりはないって言ったでしょ。そんな風に脅しつけなくても密告するつもりはないから」
その時、菓子を包んでいた無花果の葉が突然全て開き、中身を露わにした。まるで果汁を固めたような半透明の塊が露わになった。今、それに手を付けるほどユカリは空気の読めない子供ではなかったが。
「別に脅すつもりはないさ。ことが終われば解放する」とビゼは淡々と言った。
「そういうのを脅迫って言うの」とネドマリアはため息をつく。すると無花果の葉がまた閉じていく。「密告なんてしない。持ち出すことが悪いことだとすら思っていない、個人的には。だって誰かから盗んだわけじゃないからね。それは史上初めて発見されたものだよ。いくら私たちが、ワーズメーズの街が利用していたと言ってもね。誰にも密告はしないけど、でも貴女たちに忠告はしておこうかな」そしてネドマリアはユカリに視線を向ける。「ショーダリー委員長は代々勇気の魔導書を守ってきた家系の末裔よ。かの一族はこの街に幾度も勝利をもたらしている。簡単にはいかないでしょうね、どうやって手に入れるつもりか知らないけど。魔導書の数が互角なら後はいかに使いこなせるかが鍵になる」
数は勝っている、圧倒的に。だけど戦いは避けられないのだろうか、とユカリは不安な気持ちになる。
「ビゼさん」と言ってユカリはビゼをほどほどに睨みつける。「よく分からないけど、ネドマリアさんに魔法をかけるのはやめてください」
「別に酷い目に合わせるわけではないよ」とビゼはネドマリアをじっと見据えて答えた。「魔導書のことが知れ渡ると困るだろう?」
「それでも、駄目です。ネドマリアさんは何も悪くない。私も悪いことをしているつもりはないですけど。むしろ私たちが巻き込んだ形なんですよ? ネドマリアさんが何かをするのに私たちが妨害する権利はありません」
「甘いんじゃないかな?」とビゼは言ったが、ユカリが何も答えないで睨みつけていると言葉を繋げる。「もちろん恩人のユカリさんに逆らうつもりもない。でも危険性を背負い込む覚悟はしておいてくれ」
「いいえ、ビゼ様」とパディアが言って首を振る。「恩人に対する危険性は私たちが背負うべきです。違いますか?」
硬くなっていたビゼの表情が和らぎ、微笑みを浮かべてため息をつく。
「君には敵わないな。よろしい」と言ってビゼはネドマリアの方を向く。「ネドマリアさん、無礼と失言をお詫びします。申し訳ございません」
「相談にも乗ってくれたのに、魔法まで使おうとしました」とユカリは非難がましい視線をビゼに投げかける。
「分かったよ」と観念してビゼは言った。「ネドマリアさん。何か困ったことがあれば、おっしゃってください、不肖ながら一介の魔法使いとして手伝えることがあるならば協力いたします」
その日一杯、時々お菓子を食べてお茶を飲みながら、その大きな邸宅で掃除や、書籍の整理など数多くの雑用をこなし、三人は帰路についた。