コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「私達のあの雑木林が…」
そう切り出したももちゃんの目が、微かに潤んだように見えたので、僕はあわてて目を逸らした。
そして何も気づかなかった風に、「雑木林がどうかしたの?」と努めて明るく応じた。
昔は田畑が広がっていたらしいこの地域も、人間が住みつくにつれ、だんだん土の部分が減り、代わりにコンクリートやアス
ファルトが幅を利かせるようになってきた。
人間は外で靴を履くから良いけれど、僕たちは年中裸足で過ごしているから、素足に心地良い土のある場所はとても貴重なん
だ。だから、二十四時間人間達で賑わっているコンビニエンスストア―の裏にありながら、草も木も自由に伸び放題にされて
たあの雑木林は、僕たちにとって大切な憩いの場所だった。
といってもそこにはボスの側近たちが家族連れで住んでいるから、いくら広い雑木林だといっても僕たち一般のノラ猫までが
その中で 寝起きすることはできない。
だけど、ノラ猫名簿に登録さえすれば、いつだって自由に出入りが許さていたし、何より、満月の夜、雑木林で開かれる
ノラ猫集会に参加することだってできるんだ。
懐かしいあの雑木林。今となっては僕の心の故郷だけどね。
ももちゃんは遠くを見つめるようなうつろな目で静かに言った。
「あの雑木林は、もう……、ないの」
一瞬自分の耳を疑った。
心臓がいきなりズキッと痛んだ。
「ももちゃん、ないってあの雑木林がないって一体どういうこと?」
ももちゃんは何度か顔をこすった後、ポツリポツリと話し始めた。
「あの日は、朝から焼けるように暑い日だったわ」
地域の外猫たちは皆、暑さを逃れて雑木林に集まっていたらしい。
いきなり耳をつんざくような音をたて、戦車のようなブルドーザーが何台も入ってきたかと思うと、手当たり次第にそこにあ
った木という木を、次々と 引っこ抜いていった。
木も草も花も、そして皆がいつも会議で使っていた大きな切り株も、あっという間に掘り出されて、引き抜かれしまった。
そしてその後やって来た大きなトラックに次々と投げ込まれたかと思うと、どこかへ運ばれていった。
「木も草も花も、みんな泣いていたけれど、私たちだってどうしようもなかった」
こらえ切れない涙が、ももちゃんの頬をつたっていく。
僕の尻尾が荒々しく左右に動き始めた。
「その後、別の人間達がたくさんやってきて、今度はその場所全体をアスファルトでガチガチに固めてしまったのよ」
そこまで話すとももちゃんは、窓の外に目を移した。
うす緑色の目の中に映る数個の光が、はらはらと落ちていく。
ああ、何てことだ。体中から込み上げてくる悲しみで、息をするのも苦しい。
「うそでしょ! そんなこと。そんなひどいこと。あの雑木林は、僕らの大切な場所だったんだ。それが、アスファルトで全部
固められたなんて、そんなこと信じられなよ!」
ももちゃんは、何度か肩のあたりを舐め、呼吸を整えてから、もう一度こちらに向き直って続けた。
「いきなり居場所を取り上げられた私たちは、家族ごとに分かれて、とりあえず近くの人間の家の庭や倉庫の陰や、縁側の下
のごちゃごちゃした所に居場 所を探したの。
だけど、人間はいろいろだから、あまり人間に近づき過ぎて暮らすのは危険よね。
うっかり猫嫌いオーラを持った人間に近づこうものなら、とんでもない目に遭うって、何度もノラ猫集会で習ったけど、実際
人間に追いかけられたり、傷つけられそうになった猫もたくさん出てきて、これ以上ここの地域にいることは危険だという結
論に達したの。
そこでボスが緊急のノラ猫集会を開いて、何代も続いたこの地域のノラ猫集団の解散を宣言したの。みんな辛くて泣いていた
けれど、こそうなったらもう仕方ないわよね」
ここまで一気に話した後、ももちゃんはふうと弱弱しいため息をつきながらうつむいた。
先の曲がった尻尾が、さっきからイライラとせわしなく動いている。
ももちゃんは、慌ててお腹の辺りを舐め始めた。
― ああ、こんなひどいことになってるなんて全然知らずに、僕はちいといい気になって遊んでたなんて。
懐かしい仲間の顔が次々と浮かんでくる。
ーみんな、ごめん。許して。
僕は泣き叫びたい気持ちを必死でこらえた。
「ボスは言ったの。みんな、元気で生き延びろよ。
できるだけ猫好きオーラを持った人間、できれば友達オーラを持った人間に近づいて、家猫になれるよう頑張るんだ。俺はみ
んなが安全によその地域に移動できるよう、相談に乗ったり手伝ったりするから、遠慮なく訪ねてきてくれ。
みんなの安全を見届けてから、俺はこの土地を離れるからって」
背筋を冷たいものが走った。
僕は爪が刺さらんばかりに、肉球を握りしめている。ももちゃんは続けた。
「ボスは最後に言ったわ。どんなことがあってもこの集団の一員だったという 誇りを忘れないでくれって」
ーボス!
満月の光を浴びて立つボスの、その神々しく威厳に満ちた姿が目に 浮かんできた。
ーああ、ボス、ボスはいつだってみんなを守ってくれた。
だけど、そのボスも大切な仲間も、そしてあの切り株も、雑木林ごと引き抜かれてしまったなんて。
やりきれない悲しみが、涙と共に僕の目から溢れ出ていく。
「みんなの号泣の中、ノラ猫集会が終わったわ。
演台を降りたボスは、まっすぐに私の所に来て言ったの。俺と一緒に行動するのは、危険すぎる。
姫はこのまま実家に帰ってくれ。俺のことは忘れて、元気で長生きするんだぞって。もちろん私はイヤだって言ったわ。私も
みんなの手助けをするから一緒にいたいって言い張ったわ」
その時、大変だ~。子猫のにゃん太が、人間の仕掛けた網にかかったぞ~!という叫び声が聞こえてきたらしい。
ボスはその声に、よし、俺が助けてやる! と言うが速いか、飛ぶように声の方に向かって駆けだした。
「あっという間もなかったわ。これがボスとの最後だったの」
そこまで言うと言葉が切れた。
ももちゃんはうつむいたまま声を抑えて泣いていた。
小さな肩が小刻みに震えている。
ああ、ももちゃん。僕はもう何て言ったらいいか言葉が見つからないんだ。僕は歯をくいしばりながら、喉元までこみ上げて
くる怒りをこらえていた。怒り、それは間違いなく僕自身への怒りだった。
何も知らず人間の家でのうのうと暮らしていた役立たずの僕自身への、抑えようのない怒りだった。