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昼の陽射しの眩しい社内に、声が冷たく響き渡った。
「なあ、何とか言ったらどうだ」
行儀悪く机の上に足を投げ出した探偵服の上司、江戸川 乱歩が、立ち尽くす社員4人に向かって静かな叱責を送る。バツが悪そうに眉を顰める緋色の髪の青年に、今にも泣き出しそうな顔で俯く着物の少女。顔を青くして拳を握り締める白髪の青年、悔しげに唇を噤む背丈の高い男。その誰のどの表情も、江戸川の機嫌を損ねる物でしか無かった。
遡ればつい2日半程前、隣県で起きた殺人事件の解決の為、江戸川は出張へと出向いた。遺体の状態はそこまで悪く無かったが、最近の報道陣いわくその地区には以前も通り魔事件が発生したとの事。通り魔事件の犯人は大体的に愉快犯が多いと江戸川自身も熟知していた。それ故に己らが被害が及ばないよう、探偵社の女医、与謝野 晶子と、電車の乗り方が分からない江戸川の為おまけ程度に連れてこられた探偵社社長、福沢 諭吉の2人を引き連れ事件の発生地へと向かった、次期社長の国木田に探偵社を任せて。彼らなら大丈夫だろうと、いつも通りの暖かさで迎えてくれるだろうと、そう思っていた。
「、、、はぁーあ」
吐かれた溜息が、社の空気を震わせた。あの暖かさを信じていた僕が馬鹿みたいだ。自己愛の高い江戸川ですら珍しくそう呟いた。今朝、社の扉を開けた時の違和感が未だに江戸川の脳にへばりついて離れない。ただいつものように駄菓子の入った袋を片手に、 社内全体に響き渡るほどの声でふざけたおはようを皆と交わした、だが、江戸川が思っていた皆では決して無かった。
江戸川が出社して2時間程経った頃、ふと与謝野が国木田に向かって口を開いた。
「そういえば太宰、今日はまだ来ていないねぇ、もしや遂に入水が成功してしまったかい?」
言葉の後半には冗談めいた揶揄いが含まれていた、だが探偵社の皆は知っている、彼がどんな手を尽くそうとも死ぬ事は無いと、いつの間にかそう思っていた。彼がここから居なくなることなどきっと無いと、もう1時間もすればきっといつも通りにケロッと社の扉を開けて、国木田からの制裁でも食らっているだろうと。だから出張に出向いていた3人は皆、慌てもせずにいた。だが、
「あいつは、もうここには来ません。」
国木田の言葉で、3人の思考は停止した。
社の温度が僅かに下がる。談笑をしながら休憩していた兄妹も、書類片手に笑いあっていた着物の少女と白髪の青年も、暖かな笑い声と話し声で溢れていた社内をも、一瞬、しん、と静まり、それ以降戻って来なかった。時が止まったかの様だった、あの日の4人以外の社員の脳を冷やす、冷たい、酷く冷たい。江戸川は柄にも無く混乱していた。どうゆう事だ、どうゆう事だ?
ラムネ瓶を片手に俯き、眉を顰めて瞳を開き硬直する江戸川の代わりに、福沢が国木田に問う。
「国木田、詳しく説明をしてくれ」
いつもと声は変わらないのにも関わらず、聴き慣れたその声にはいつもと一風変わった威圧感が零れていた。齢14と幼い頃から家族同然の様に過ごしてきた江戸川でさえ怖気付くほどの、例えようもない程の莫大な威圧感。次期社長、稽古を受けた国木田と言えども高々2年ほどの付き合い、江戸川ですら畏れる雰囲気に圧倒されるもやむ無し。一瞬ガチリと固まった国木田は即座に引き出しの中から1枚の写真を取り出し、社長にそっと差し出した。
「あいつが一般人を殺害したとの通報がございました、証拠写真がそれです。」
社長の傍らから与謝野と江戸川が写真を覗き込む。路地裏の入口に立つその男の見た目は確かに太宰と酷似していた。
「目撃者の証言もあります。癖のある茶髪に砂色の外套、背丈は180以上 、胸元に青いアクセサリー、手首と首には包帯が」
国木田の声が示す特徴を目で追う、丈が膝まである砂色の外套、僅かに赤が滲む包帯、それが巻かれた手に握った凶器、胸元に飾った青い、青い、ネックレス。
はたり、江戸川の翡翠色の瞳が揺れた。ゆらゆらと見開いた瞳で必死に写真の男の首から胸に掛けたアクセサリーを捉える、白銀色の細いチェーンに繋がれた青い石、見知った太宰の肌色とは些か白すぎるブルーベースの肌、太宰のものより少し骨張った手、目元にうっすらと浮かぶ、切り傷の様な物。1度認知したら、別の違和感達が溢れ出る、写真の男のどこを見ようと零れる相違達はまるで壊れた蛇口の如く、江戸川の脳に満ちる。
「余りにもあいつの外見と酷似している為、我々は犯人をあいつ、太宰治だと判断し、社員を危険に晒さぬよう太宰治を探偵社から追放致しました」
「奴は元マフィア幹部、数多の人々を殺め、苦しめて来た事でしょう。」
江戸川の耳に、国木田の声が聴こえた。
ついほう、太宰を?目撃者の証言によって太宰を犯人だと判断し、追放しただと?何だ、何が元マフィア幹部だ、確かに、きっと太宰は数え切れない程の人々を殺した。だがきっと無差別では無い。敵対組織、反逆者、己らに害を成す者。あいつの血のリストは全てそれで構成されている筈だ、無差別に殺す様な愉快犯なら、探偵社に入る事すら考えない。
「国木田、目撃者は何人だ」
福沢の声が、国木田の喉を詰まらせた。はたり、僅かに国木田が俯き、灰色の瞳を揺らす。その脳に浮かんだ証言者は、たった一人の白髪の青年だった。
1秒、2秒、3秒4秒。
5秒の間の後、ふと与謝野が口を開く。
「なァ、国木田。まさか」
1人しかいなかったなんて、言わないよね。
震えた声のその後、ポツリと赤い唇から零れ落ちた言葉に、ある日の4人の背に冷たい何かが走った。ひゅぅっ、と着物に飾られた少女の黒髪が揺れる、窓から射し込む昼の太陽が痛い。くしゃりと緋色の髪の青年が眉間に皺を刻んだ。白虎は口を紡ぎ、男に目配せを。3人の視線の前、国木田は必死に脳内で言葉を編み合わせる、これ以上機嫌を損なわせぬよう、慎重に、慌てて。ああ、蛇に睨まれた蛙とは、まさにこの事でしょうか。緋色の青年の妹がふと耽る。詰まる喉をなんとかこじ開け、意を決して国木田が口を開く。
「、、、目撃者は、一人しかおりませんでした、、、」
詰まりに詰まった声を絞り出す、妙に鼓動がうるさかった。社員達も、取り乱した国木田の様子に何処か緊迫し、不安そうに瞳を揺らした。だが、それ以上に貌に戦慄の青を浮かべる4人が居た。その時一人の、緋色の髪の青年、谷崎が大事な事を、探偵にとって何より大事な事を、今更思い出した。
たった一人がした証言のみで事件の真相に迫ることは不可だ。
そんな当たり前なことを、今の今まで忘れていた。あの日、彼を責め立て、蔑み、追い出した時にも、そんな事は頭に無かった。どうしてだ、己らは確かに探偵社の一員、明瞭で、清廉潔白で、正義その物を表した様な探偵社の一員だ。そんなボクらが何故?どうして彼を、彼を除外したんだ、ボクらが探偵社の一員であるように、彼だって、そうだった。同じ、仲間。否、仲間なんて関係では表せない程に、彼とボクらは深い深い絆で繋がれ、救われていた。
救われていたんだ。
はたり、戦慄の青が、後悔に白む。
そうだ、いつだって彼は、太宰さんはボクらを気にかけていた。たすけてくれていた。
はぁ、と疲れた溜息に、4人の愚か者が脳をぐらりと眩ませた。
「太宰が追い出された場で発言した奴らは、こっちに来い。話がある」
「それと社長、特務課に報告してきて」
「嗚呼」
福沢が社長室へ向かい、扉を締める。それに倣い与謝野も診療室の方向に、扉を締める音はいつもより乱雑で、怒りを孕んでいた。キイと椅子が鳴く、見ると足を机の上に投げ出し天を仰いでいた。恐る恐る3人が国木田の近くに留まり。飛んでくるであろう咎めを待つ。
「この中で、太宰を擁護した者はいるか?」
隠された翡翠を露に、4人を睨みつけて。尋問を1つ。4人の心臓がばくりと音を立てる。カチカチカチカチと鳴る時計の音が4人の返答を急かす。敦は己が浴びせた目線を、鏡花はあの日吐き捨てた言葉を、谷崎は彼に向けた敵意を、国木田は彼に、元相棒に投げつけた怒鳴り声を、愚か者達は、思い出していた。あの日の過ちを拾い上げ、代わりに、過ちの対価としての悔やみを落とす。救われた筈の人食い虎は、獣らしく歯を食いしばり。夜叉は導かれたのにも関わらず、涙を1つ。雪は青く凍り。真っ蒼な炎は後悔に消えかかる。それを見据えた翡翠が、また1つ縄を打つ。ここで、冒頭に帰す。
「、、、お前達は、自分が何をしたのか分かっているのか?」
暫し狼狽えた国木田が、震えて割れそうな声をなんとか絞り出す。
「俺は、俺達は、、、独断であいつを追い出し、傷付けて、、、」
「傷付けたなんて次元じゃないだろ、あいつがどれ程この場所を愛していたか、お前に分かるか? 」
喉が詰まる、分からない、俺には分かれない。愛している、俺も此処を愛していた。皆で馬鹿騒ぎして笑いあう、何よりも暖かなこの場所を愛していた。
「太宰を追い出した時のお前らは、その判断を正義の元に降した鉄槌とでも思っていたんだろう、己が振りかざした物を、本物の正しさだとでも思っていたろ?」
振りかざした声、視線、敵意、言葉。
ああ、きっと私達は今の今まで狂っていたんだろう。
何故救われた筈の僕が気づけなかったんだ。
いくらボクらが悔やもうと、彼の人はもうすっかり此処から消えた。
俺は、未だに正義を履き違えていた?
「あの日お前らは、全てを間違えたんだ」
今になって気付いても、大きな過ちは、毒のように彼に染み込んで、冒していくばかりだ。
明るく、明る過ぎる陽射しが痛く肌を刺す。
「ばかだ、なんて馬鹿な事」
白虎が薄らと呟く。
「お前ら、僕がいなけりゃ本当になんにも出来ないね」
いつか、彼の人が居たいつかに、笑いながら高らかに上げられた音。言っていることは同じ筈なのに、その言葉に孕まれたのは、他でもない失望だった。
痛い、焦がれそうなほどてらてらしい太陽が痛い。写真の中、月のように白い肌の男が、一般論が掲げる正義に囚われた愚か者達を、うっそりと嗤っていた。
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