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一日目は快晴だった。
どこまでも青く高い夏の空を二本の白い飛行機雲が宙を引き裂いていた。
「あれは自衛隊の飛行機?」
「そうだね、F15ファントム、緊急発進スクランブルだね」
「なんでいつも二機なの」
「一機が駄目になったら二機目が頑張る、しばらくすればもう一機が駆けつけてくれるんだよ」
「そうなんだ」
時速70kmで駆け抜けるイエローオーカー、エアコンが効かないブルーバードの助手席に座った私はサイドウィンドウを全開にし髪をなびかせていた。
「惣一郎、スピード速すぎない?」
「そうかな」
海岸線は緩いカーブが絶え間なく続き、時折対向車線へとはみ出した。
「ほら、あぶなーーー危ないって!」
「良いんだよ!」
「なにが良いのーー!ほら、50km制限って看板が!」
「良いんだよ!」
「良くない!」
「死ぬ時は死ぬんだよ」
「え、聞こえない!」
ハンドルを片手で握り窓に片肘を突く惣一郎は気怠げに微笑んだ。それは時に人生を投げ出したような雰囲気を醸し出していた。
左側は落石防止のネットが張られた切り立った壁、センターラインの向こう側は白いガードレールが遮る断崖絶壁の海。平静を装った私の両手はシートベルトを握り締め、黒いサンダルを履いた両脚を突っ張っらせた。
(ーーーこんなに乱暴な運転をするなんて、聞いてないよ!)
「なに、どうかした?」
「ううんって、前を見て、前ーーー!」
黒いワンピースの脇に汗を掻いたのは暑さのせいだけじゃない。
「惣一郎、前ーーーー!」
対向車線から鳴り響く激しいクラクション、生きた心地がしなかった。
「あ、ここ」
路肩の白いガードレールが途切れ、海岸へと下る細い道が現れた。
「曲がるんですか」
「そうですよ」
ウインカーが右に点滅し車はスピードを落としてその坂道を進んだ。シダ植物が生える松葉の絨毯、杉林の中に太陽の光が点々と届いた。
「涼しい」
「日差しが届かないからね」
「だからあんなに沢山生えているんですね」
「あぁ、シダね」
「はい、ちょっと不気味かも」
「でもあれがないと地球に酸素が足りなくなるよ」
「光合成、ですか」
「そう」
やがて杉の木立は山葡萄や木通あけびの蔦が絡まる胡桃くるみや楢ならの雑木林へと変化した。
「今度は鹿でも出て来そうな雰囲気ですね」
「あぁ、カモシカとは時々遭うね」
「まさか、熊は」
「熊はいないよ、見た事がない」
砂利を踏むタイヤの回転音、パキパキと小枝が折れる音が私たちの後を尾いて来た。
「ーーーーわぁ、わぁすごい!」
一気に視線が開け青空が覆い被さって来た。その景色に浮かび上がる真っ白なロッジ、木枠の出窓ガラスの向こうには水平線が広がっている。床下には薪が積み上げられていた。
「私のアトリエ、冬は使えないけれどね」
「如何してですか」
「あの坂道を除雪してくれる人は誰も居ないよ」
ふと見上げると天窓にライトが点いている。
「どなたかいらっしゃるんですか」
「防犯用にソーラーライトを点けてあるんだ」
「そうですか」
「誰か居るみたいに見えるだろう」
「そうですね」
惣一郎はトランクを開けて油画用のテレピンオイルや顔料、木製パレット、筆を取り出した。私がそれに触れようとすると「待って」と止められた。
「顔料に慣れていない人が触ると皮膚がかぶれますから」
「そうなんですか」
「気を付けてください」
「はい」
私はイーゼルと数枚のキャンバスを抱えて玄関の扉が開くのを待った。惣一郎のジーンズのポケットから鍵束が取り出され施錠が解かれた。
「はい、どうぞ」
「お邪魔します」
「臭におい、大丈夫でしょうか」
「ちょっとーーー臭いです」
シンナーにも似た鼻をつく臭いに吐き気を覚えた。
「すみません、今すぐ換気しますね」
開け放たれた窓から吹き込む日本海の潮風、はためく白いカーテン、木の床や白い壁は飛び散った色彩に溢れ、何十枚ものキャンバスが壁に立て掛けられていた。イーゼルの上には描きかけの風景画、そして背もたれのない木の椅子が二脚置かれていた。
「ここが、井浦教授のアトリエ」
「違います、惣一郎ですよ」
「そうでした」
惣一郎は私の手からイーゼルを受け取ると床に置いた。そして顎に手を添えて屈み込むと舌で私の前歯を割り中へと滑り込ませた。