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#シリアス
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熱が下がり、ようやくお屋敷に平穏が戻ったかと思った矢先のことだった。
九条家の本家から、伊織様の叔父にあたる厳格な老紳士が、数人の供を連れて乗り込んできたのだ。
「伊織、いい加減にしろ。遊びも大概にせんか」
応接間に響く、地を這うような低い声。
私はお茶を運ぼうとして、扉の前で足を止めてしまった。
「叔父上、何のご用です。見ての通り、私は今、極めて多忙なのですが」
「多忙? 地下室に籠もって古本の修理か?それとも、その辺の野山から拾ってきたような娘のままごとにか?」
叔父様の言葉に、心臓がギュッと音を立てて縮んだ。
『野山から拾ってきたような娘』……。
それは紛れもなく、私のことだ。
「没落士族の娘を後妻に据えるなど、九条家の面汚しも甚だしい。帝都の夜会でも笑いものだぞ。……伊織、今すぐその娘と離縁しろ」
「代わりに、然るべき家柄の令嬢との縁談を用意してある」
「…………」
部屋の中が、凍りついたような沈黙に包まれた。
私は震える手で茶托を握りしめ、俯いた。
……ああ、やっぱり。私のような者が伊織様の隣にいることは
彼を傷つけ、彼の地位を汚していたのだと痛感する。
(伊織様のために、私が身を引かなければ……)
そう決意して、部屋に飛び込もうとしたその時だった。
「……叔父上。一つ、訂正させていただきます」
伊織様の声が聞こえた。
いつもの甘い響きも、焦ったような上擦りもない。
それは、冷徹なまでに研ぎ澄まされた、鋭い刃のような声だった。
「ままごとではなく。彼女は、正真正銘、私の唯一無二の伴侶です」
「何を馬鹿な……!一族の支援を打ち切られてもいいのか!?」
「ええ、結構だ。九条の名も、爵位も、財産も……紬がいない人生に比べれば、ゴミ同然だ」
「彼女を侮辱し、離縁を迫るというのなら、今この瞬間、私は九条の籍を抜けます。……叔父上、お引き取りを」
「き、貴様ッ……正気か!」
怒号と共に叔父様たちが部屋を飛び出してきた。
私は慌てて影に隠れたけれど、彼らが去った後、おそるおそる部屋を覗き込んだ。
そこには、ソファに深く腰掛け、顔を覆って激しく震えている伊織様の姿があった。
「……伊織、様……?」
「っ、紬……! 聞いていたのか……」
伊織様は跳ねるように立ち上がると、私の元へ駆け寄り
壊れ物を扱うような手つきで私の肩を掴んだ。
その瞳は、怒りではなく、私を失う恐怖で潤っていた。
「今までのことは謝る……君に酷い態度をとったことも、偉そうに言ったことも。でも、信じてくれ。俺は、君さえいれば何もいらないんだ。家柄なんて、君の笑顔一つにすら及ばない。……捨てないでくれ。俺を、一人にしないでくれ……」
「……伊織様…私は、伊織様のこと好きですよ」
「……また、それか。……俺は今、全てを失うかもしれないんだぞ?」
「はい。……だって、そんなに……私のために、全てを投げ打つ覚悟をしてくださった。…地位も名誉も、私というちっぽけな存在のために、迷わず捨てると仰った…出会ったころとは大違いでビックリです」
「…………っ!!」
伊織様は目を見開き、次の瞬間、私を押し潰さんばかりの力で抱きしめた。
「……君は、本当に…っ、尊敬なんて言葉で片付けられるような覚悟じゃないんだぞ」
「私はついて行きますよ、こんなに素敵な旦那様ですもの!」
「ああ、もう……そうかよ。君がそう笑うなら…俺は本当に、何だってやってのけるからな」
伊織様の耳が、決意と照れ臭さで真っ赤に染まっているのが見えた。
余裕たっぷりの「蝶」だった旦那様は
今や一輪の「野の花」を守るために、牙を剥くことも厭わない、余裕ゼロの騎士へと変わっていた。