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数日後、応接室のソファーに座った桜子の前で、狐塚は分厚いファイルをテーブルの上にパサリと置いた
「春ウララさんの弁護士と第三回目の慰謝料値下げ交渉に成功しました」
その一言に、桜子はわずかに身を乗り出した
「それで?慰謝料はいくらになったんですか?」
「八十万!」
狐塚は指を二本立て、まるで手柄を誇るように言った
「八十万?前回から二十万しか下がっていないじゃないですか!たったそれだけ?」
桜子は拍子抜けしたような声を出した、もっと大幅な金額値下げを期待していたのに
「いやぁ~!美木さん、それだけ?とはいいますけどね」
狐塚は細い目をさらに糸のように細め、口角だけをにゅっと持ち上げた
「匿名掲示板にあなたが書き込んだ内容を『名誉毀損訴訟』する、というのはあくまで最初の主張でしてね、あちら側は、それに付け加えて色々と主張を重ねてきましてね」
「い・・・色々って?・・・」
桜子は焦った・・・テーブルの下で組んでいる両手をギュッと握る
「そもそも、この名誉毀損の原因となった匿名掲示板であなたが『春ウララは匂わせしている恥ずかしい人』と仕向けられたと主張しているあの投稿ですが・・・そのきっかけとなった○月○日の春ウララさんの『読者に良いお知らせがある』というSNSの投稿ですね、あの時点で春ウララさんはすでにご自身の全てのSNSであなたをブロックしていたはずなんです、なのにどうして春ウララさんの投稿内容を知ってて匿名掲示板に書き込んでいるのだと言っています」
狐塚はそこで一度言葉を切り、書類の一点を指先でトンと押さえた
「春ウララさんがブロックして拒絶しているにもかかわらず、あなたが別アカウントを取得して、彼女の投稿に付きまといををかけ、その投稿内容を匿名掲示板に暴露していた、これはいわゆる『ネットストーカー行為』にあたるのではないか、と指摘されておりましてね」
「そ・・・それは・・・」
桜子は言葉に詰まった・・・思い返せばまさにその通りだった、春ウララにブロックされたことに腹を立て、すかさず新しいGメールアカウントを取って別アカウントを作り、こっそりウララの投稿を監視し続けていた、あの夜のことが脳裏をよぎる・・・あのときはバレないと笑いながらキーボードを叩いていたはずなのに、狐塚はまだ続ける
「そしてもう一つ、春ウララさんの小説の『盗作』問題ですね」
その一言に桜子の心臓がドクンと跳ねた
「盗作って・・・ひ・・・人聞きの悪い、しょっ・・・証拠は?」
「ええ・・・少し整理させてください」
狐塚は書類をめくりながら、講義でもするような落ち着いた口調に切り替えた
「盗作というものは、どこからどこまでが『盗作』にあたるのか、実は法律的にも線引きが難しいところなんです、もちろんストーリー全体を盗作している訳ではありませんが、あちら側の弁護士が今回主張しているのは・・・たとえば、数十件にもおよぶ春ウララさんならではの言葉選びや比喩表現を、美木さんがそのままコピー&ペーストして、ご自身の作品に盗用していたのではないか、という点です」
狐塚は書類から目を上げ、桜子の顔をじっと見た・・・ヒヤリと背中に悪寒が走る、狐塚の細い目の奥に、値踏みするような光がキラリと浮かぶ
「『著作権法上』の『複製権、あるいは翻案権の侵害』という主張です、具体的な文言やセリフ、ウララさん独自の表現方法の文章を無断で使用したという証拠・・・つまりあちらは側は「読ませたくないとブロックしているにも関わらず、数年間に渡って、およそ数十件の盗用されていると思われる箇所と、時系列の投稿履歴の比較資料」とさらに春ウララさんの読者さんの「証言」も集めて、春ウララさんの「所有権を侵す行為」としてすでに揃えているようでしてね、それと合わせて春ウララさんがご自身のSNS投稿でそれを指摘した腹いせに、美木さんの匿名掲示板での極めて悪質な報復行為・・・これ以上慰謝料の値下げを申し立てるなら、合わせてこちらも訴訟を起こすと言っています
桜子は喉の奥が急に渇くのを感じた・・・名誉毀損だけの話だと思っていたはずが、いつの間にか話は全く別の――それも、より重い法的な次元へと転がり始めていた、でも…こんな高額な慰謝料・・・とてもではないが無職に近い桜子が用意できる訳もない
「も・・・もし・・・払わなければ・・・どうなるんですか?」
冷や汗を書いて言う桜子に狐塚はふぅ~・・・と少しため息をついて、暫く考えてから言った
空音
37
シュメール
604
39
2,810
「自腹を切って春ウララさんの管轄の裁判所へ出向く必要があります、さらに春ウララさんはもし裁判になるのなら中継で「オンライン公開裁判」を希望していらっしゃいます・・・要するに世界中の人が観覧できる場で顔出しで罪に問われることになります、あなたも作家ならおわかりでしょうが、以前に大物お笑い芸能人が上納システム事件でテレビから消えたように、ヘタをするとあなたの作家生命は終わり、あなたの著書も絶版に追い込まれる可能性があります」
「そんな!!戦ってくれないんですか?ち・・・ちょっと匿名掲示板に愚痴を書いただけだし、少し文面をマネしただけよ、ふ・・・複垢だって・・・誰だってやってるし、皆模範にする作品はあるわ、ちょっと・・・大げさ過ぎるでしょ!」
ガタンッと桜子は我慢ならないと立ち上がった、狐塚がテーブルから青いファイルを取って来て言った
「美木さん・・・民事裁判というものは、どんな行為があり、誰がどんな損害を受けたかで判断されることです、あちらの弁護士から「社会的評価を下げられて損害を受けた」と主張している春ウララさんの声明文をお預かりしています、どうかご本人に読み聞かせて欲しいとのことです」
「なっ・・・なんて書いてるんですか?早く読んでくださいっっ!」
狐塚は青いファイルの中から、もう一枚、別の綴りを引き出した、それまでの淡々とした事務的な口調とは違い、心なしか声のトーンが一段低くなる
『・・・(気にしなければいい)と、人は言う・・・』
コホンッと狐塚が一つ咳をして改めて読み始める
『匿名掲示板に書き込まれたアンチ投稿など、気にしなければいい・・・放っておけばいいと人は言う・・・しかし、靴の中に小石が入ったまま足を傷つけているのに「気にするな」と言われて、いったいどこまで歩き続けられるだろうか・・・』
狐塚は続ける
『同じことを三回も口にすれば、友人や家族にもうんざりした顔をされた、なので、誰にも言えなくなって自分自身に百万回言い聞かせる・・・『放っておけばいい』『気にしなければいい』と・・・しかし夜は眠れず、昼間は寝不足で仕事に身が入らない、それでも夜が来ると、また何か書かれているのでは?と怯えて掲示板を見たくもないのに確認せずにはいられない・・・そしてそんな自分を『弱い』と責めてしまうんだ・・・あれほど心の中でキラキラ輝いていた創作の泉は枯れ、あの掲示板を読んだ日から一文字も書けない・・・』
ふと、桜子は自分自身の悪口を匿名掲示板に書きこまれた時の事を思い出した、まさにあの感覚を春ウララは体感していたのだ、あのおぞましい体験を・・・桜子も鬱症状に悩まされたものだ・・・そしてそれをすっかり忘れてしまっていたなんて
『この世界のどこかで誰かが私の悪口を書いて笑っている・・・私は本当に匿名者達の言う様に「恥ずかしい人」なのだろうか?そんなに「恥ずかしい」ことをしたのだろうか?「恥ずかしい作家」の作品を喜んで読んでくれる読者も「恥ずかしい人」なのだろうか・・・キーボードに手を置いたらめまいがする、何を書いても盗まれて、笑われる気がする、これ以上小説を書いてても何も良いことがない気がした、もう・・・筆を折ろう・・・こんな自分は死んだ方がいいのかもしれない・・・一時はそこまで追い詰められた』
桜子は声明文を読む狐塚の顔が見れなかった、脳裏に浮かぶのは自分がパソコンの前で春ウララをバカにしながら匿名掲示板に悪口を書き込んでいたあの夜の姿だった
そこでようやく春ウララの苦悩を知り、もしかして自分は取り返しのつかないことをしてしまったかもしれないと・・・ここへ来て初めて胸が苦しくなった、狐塚が続きを読む
『すると、次第にこんな匿名で人を貶めようとしている人間に興味が湧いた、だんだん調べたくなってきた、コイツはどこに住んでいて、何をしている人間なのか?家族は?職業は?結婚はしているのか?子供はいるのか?親は?コイツの家族や職場の人間は、コイツが闇でこんないやらしい事をしているのを知っているのだろうか?陰で私を貶めようとしたコイツの身元を突き止めれるのなら金に糸目はつけない』
今や桜子の心臓はドキドキして冷や汗が止まらない、狐塚は桜子の反応をじっと窺うように見ていたが、何も口を挟まず、ただ静かにページをめくって次を読み上げた
―まだあるの?―
『そして突き詰めて本当に驚いた!なんと、同業者ではないかっっ!!思わず爆笑してしまった、商業作家になって一年も経たない新人の私の小説を盗んで、ブロックしているにも関わらずコソコソ別垢で付きまとって、匿名掲示板で貶めている、人生でここまで人にコケにされたのは初めてだ、コイツの本を出している出版局の社長はこのことを知ったらどうするだろうか?どう対処するのだろうか見ものだ、いくら言い逃れをしてもあなたのやっていることは犯罪なのよ、今は才能よりも作家の人間性が問われる時代、果たしてどちらが真に恥ずかしい作家なのか、あなたのしてること全てを明るみにして――』
その時、狐塚の目が冷たく光った
『世の裁きを受けるがいい』
まるで、空気の鞭でバシッと体を叩かれた様だった、弁護士事務所の応接室は耳鳴りがするほどシ・・・ンと静まり返り・・・狐塚が黙っているので随分経ってから、春ウララの声明文は終わったのだと気が付いた、桜子は額に皺を寄せながら言った
「どう・・・すれば・・・いいのでしょう・・・?」
なんとも間抜けな言い分だなと桜子自身も思った、自分が軽い考えで何気なくしたことが・・・これほどの憎悪を向けられてしまったなんて・・・学生時代でさえ誰かと喧嘩したことなんてなかったのに、狐塚の目は抜け目なく、そして声はとても落ち着いた声で言った
「慰謝料をお支払いするべきです、美木さん・・・八十万円、耳を揃えて支払って・・・終わりにするんです。安いものです、それであなたの作家生命もあなたの著書も守られます」
狐塚の初めて会った時の愛想笑いももうなくなっていた、これ以上お前を庇っても一円も儲からないと狐塚の冷たい目が語っていた
「狐塚法律事務所」のホームページの謳い文句『これまでの裁判実績、負けゼロ、勝訴率100%』の意味は・・・
はなから、勝ち目の無い裁判はしないということで守られていたのだった
コメント
3件
100万でも安いと思うなぁ😓桜子潔く詫びて払うもの払って生まれ変わるべきかと

ウララ書けなくなってる!可哀想😢素直に払いなよ!
うわあ…声明文が重すぎましたね。これまで軽く見ていた桜子が初めて「やったことの大きさ」に気づく流れ、とても印象的でした。 靴の中の小石の比喩や「一文字も書けなくなった」というくだりで、自分の行動を思い返すシーンは胸が苦しくなりました。狐塚の「勝訴率100%=勝てない裁判は受けない」というオチも、この事務所の本質がよく出ていてゾッとします。