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夜が更けた街を、私は傘も差さずに歩いていた。雨は激しさを増し、私の体を冷たく濡らす。どこへ行っても無駄だ。そう、初めからわかっていた。私はもう、逃げることに疲れてしまっていた。心の中には、恐怖と同時に、ある種の安堵が広がっていた。もう、逃げなくてもいいのだ。
ふと、目に留まったのは、古びた倉庫街だった。錆びたシャッターがいくつも並び、人影は一つもない。私はその暗闇に吸い込まれるように、シャッターの前に立ち止まった。
「ここにいたんだね」
背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると、颯太が立っていた。雨に濡れた彼の前髪から、狂気に満ちた瞳が私を射抜いていた。その手に握られたナイフが、月明かりを反射して鈍く光る。
「ごめんね」と彼は言った。震える声だった。今にも泣き出しそうだった。
「どうしてこんなことするの…?」と、私は尋ねた。
「だって、君は僕を裏切った。他の奴と笑ってた。全部、君のせいなんだ」
彼の言葉は、まるで誰かから聞かされた台詞のようだった。
「だから…ごめん」
私はゆっくりと口を開き、微笑んだ。
「ううん、いいの。ずっと待ってた」
その言葉に、颯太の瞳に一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。だが、それはすぐに消え、ナイフは振り下ろされた。彼の腕から滴り落ちる雨水が、私の頬を冷たく濡らした。
私が最後に見たものは、床に転がっている、古いマリオネット人形だった。その人形の小さな手が、一輪の枯れかけた赤い椿の花を握りしめていた。
「……殺された時、笑ってたらしいわよ」
雨上がりの路地裏で、近所の主婦二人が傘を差しながら噂話をしていた。
「まぁ、そんな…」
「それにしても、あの椿さんって人、颯太さんのこと、すごく愛してたみたいじゃない。別れた後も、わざと彼が行く場所に顔を出したり、彼のSNSに、彼だけがわかるメッセージを送ったりしてたって聞いたわよ」
二人の声は、まるでマリオネット人形のようだった。その声が響く道端には、どこからか飛んできたマリオネット人形が、雨水に濡れてきらきらと光っていた。その小さな手には、まるで血を吸い取った様に真っ赤な椿の花が握られていた。それはまるで、役目を終えたかのように、静かに横たわっていた。
椿の花言葉「罪を犯した女」