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……オレンジ?
さっきまでビールを飲んでいたはずなのに、突然俺の口の中にオレンジ味の飴玉が現れた。
まただ。マスカットに引き続き、今度はオレンジのどんぐり飴。
それにまたこのマンションだ。
一体ここはどこなんだ?
辺りを見渡していると、なんだか石けんの香りと明らかに風呂からとわかる湿気が俺の周りにまとわりつく。
誰かが風呂に入ってる?
覗きたいわけじゃない。手がかりが欲しいのだ、ここがどこなのかの。
俺は風呂と思われる方向へ歩いていった。すると、浴室には灯りがついていて、話し声が聞こえた。甲高い女の子の声と、低い男の声。
あの写真立てで見た女の子の声か? ということは、男は父親か。
父娘が風呂に入っている家になぜ俺がいるんだ? そうだ、母親は?
こういう時、普通は外で待ってるよな? でもリビングにはいなかったぞ。
トイレか? いや、この家には他にひと気がなかった。俺以外には。
そこで俺は何気なく洗面所の鏡を見た。
え? 杏子?
思わず杏子を捕まえようとして手を伸ばす。
しかし杏子もまた俺に向かって手を伸ばしてくる。
「鏡……」
ここは風呂の前の洗面所で、当たり前のことだが、俺が見ているのはごく一般的なマンションの洗面所の鏡だ。
なら、杏子が鏡に映っているということは……。
恐る恐る、手を顔にやってみる。
杏子が杏子の顔を触っている。俺は俺の手の感覚を感じている。つまり……。
「……俺、杏子になってる?」
思わず鏡にグッと近づいて杏子になっている自分の顔をのぞき込む。
何故だ? 何故俺は杏子になっているんだ?
それに、これは俺が知っている杏子じゃない。
長かった髪は肩までの長さに切られ、丸みを帯びていた顔の輪郭が妙にすっきりしている。
最後に会ったあの時も、大人っぽくなったと思ったが、それは学生時代と違いちゃんと社会人としてのメイクをしていたからだった。
この髪型のせいかもしれないが……痩せすぎじゃないのか?
「マーマー! そこにいる?」
「え」
「しゃぼんだま、とってー」
「しゃ、しゃぼんだま……」
洗面台の子供用歯ブラシの横に、しゃぼんだまセットのようなものが置いてある。
これか?
いや、待て。今、女の子は杏子のことを『ママ』って言ったよな?
杏子……結婚していたのか……。
浴室の中には、杏子の娘と、杏子の旦那が……?
「ママー? はやくー」
「杏子、俺湯船だから開けていいぞー」
え? え? 俺が開けるのか?
俺が浴室のドアを開けられずにいると、中から女の子が飛び出してきた。
「もうっ! ママおそい~」
「あ、ご、ごめん……」
やっぱり写真立ての女の子だ。
しかも、本人を見て気づいたが、学生時代の杏子にそっくりだ。
俺は思わず浴室を見てしまった。
「あ……」
湯船には、モデルのようなきれいな顔の男……杏子の旦那がいた。
「もー。ママおっきなアメたべてる~。ひなにはたべたらダメっていったのに」
「え」
「どんぐり飴か? そりゃあの大きなアメを食べてるんなら返事できないわな、ハハハ」
「いいもーん。ひなもアメかってもらったの。だだ、あとであげるね」
俺が喋らないのは口の中の飴玉のせいだと思っているようだ。
女の子が俺の手からシャボン玉セットを奪った。
「だだ! ひなのストローはきいろなの。だだはママのピンクのストローね」
「よーし、ひな、どっちが大きなシャボン玉を作るか競争だぞ」
イケメンな上に子煩悩……。
「ママ、さむいからしめてー」
「あ、ああ……」
浴室のドアを閉めて、リビングに戻り、何が起こっているか整理する。
会社の歓迎会から、突然見知らぬマンションに飛んだら杏子に変身していた。
そして、杏子には旦那と娘がいた。
「ここで、杏子は結婚生活を……」
そうか。何もかももう遅かったんだ。
あれから4年も経っているんだもんな。
俺たちは29歳。結婚して子供がいてもおかしくない。
可愛い子だった。杏子にそっくりな……。
俺が杏子と結婚できていたら、俺にもあんな可愛い子がいたかもしれないんだ。
頭の中であの女の子を抱っこした杏子が浮かぶ。
俺が欲しかったもの。でもそれはあの男のものなのか……。
喉の奥が痛かった。こんな大きなアメを食べているからだ、きっと。
いつもならすぐに噛んでしまうアメを、噛めないほど動揺していた。
「……ウッ……ウッ……」
アメのせいだ。アメのせいだ。
俺は泣いてなんかない。
喉が痛いのはアメのせいなんだ。
しかし、こみ上げてくる涙を止めることはできなかった。
俺はどうしてあの時ちゃんと話し合わなかったんだろう。
あの同窓会の日に戻れたなら、待っていてくれって、ちゃんと言ったのに。
掛け違えたボタンは掛け直せばいい。
でもこれは……もう元に戻れないじゃないか。
杏子はもう俺のいない人生を歩んでいる。この部屋で。
どれほど泣いただろうか。
風呂にいる二人はまだシャボン玉で遊んでいるのだろう。
俺はどうしてももう一度女の子の顔が見たくて写真立てを手にしてみる。
やっぱり小さいときから杏子にそっくりだ。
これが俺の子だったら……。
ふと、別のチェストの上にも写真立てがあることに気づいた。
その横には小さな卓上ブーケが飾られてある。
「これ……杏子のおばあさんだ」
ここにこんな風に写真立てがあると言うことは、亡くなられたのかもしれない。
杏子は小さいときに実母を亡くして、おばあさんに育てられた。
そのおばあさんも亡くなったのか。4年も経ったんだから、そういった変化も起こるだろう。
杏子はおばあさんっ子だったからきっと悲しんだだろう。
でも、あの旦那が傍で慰めたんだろうな。当たり前か、旦那なんだから。
この変身は、ずっと断ち切れなかった杏子への想いを断ち切らせるために、神が起こした試練かもしれない。
現実を見ろって。お前は遅いんだって――。
神様、よくわかりました。
だからもう元に戻してください。
俺は……耐えられそうにありません。
早くここを離れて一人にならせてください。あの二人が風呂から出てくる前に――。
――――――――そう願った瞬間、俺の意識はまた飛んだ。