如月倫子は、賢治の目を盗み、ネクタイをショルダーバッグに詰めた。逢瀬に満足した賢治は惚けた顔で「また、来週な」とホテルの回転扉の向こうへと姿を消した。賢治の襟元には、カルバンクラインのネクタイはなかった。
(ネクタイに気付かないなんて馬鹿ね。奥さまはどんな顔をするかしら)
その修羅場を想像しただけで、笑いが込み上げた。
(あんな女、賢治には似合わない!さっさと離婚すれば良いのよ!)
自身の家庭の事など顧みず、不倫相手にのぼせ上った倫子には、賢治の姿しか見えなかった。そして如月倫子は一線を踏み越えた。
(顔が見てみたいわ)
如月倫子は深紅の口紅を引き、黒い下着を着けると白いカッターシャツを羽織った。カッターシャツのボタンは胸元が見える位置まで外し、腰のラインが顕な黒いタイトスカートを履いた。そして、手首に白檀のオードパルファムを吹き付け、擦り合わせた。淫靡な香りが立ち昇った。
(どんな声なのかしら)
如月倫子は、わざわざ自身が経営する”きさらぎ広告代理店”の茶封筒に、賢治のネクタイを入れた。
(そうだわ)
そのネクタイにも白檀の香りを吹き付けた。住所は高等学校の同窓会で使ったデータで把握していた。”グラン御影”、その立派なマンションの最上階を見上げると、憎しみが沸々と沸いた。もしかしたら、自身があの場所に住んでいたかもしれない。憎しみを込めて、インターフォンのボタンを押した。
(503号室)
ピンポーン
「どちら様でしょうか?」
「如月と申します」
「きさ・・・・きさらぎさん、ですか?」
「綾野賢治さんはご在宅でしょうか?」
「いえ、主人は勤めに出ておりますが、何かご用でしょうか?」
「そうですか、お忘れ物をお届けに参りました」
その女性、綾野菜月は難なくオートロックの施錠を解いた。不用心な女だと、呆れて言葉も出なかった。多分に、これまで危険な目にも遭わず、ぬくぬくと真綿に包まれて暮らして来たのだろう。
(・・・・くそ!)
エレベーターの箱に乗り込んだ如月倫子は、腹正しさと怒りに任せ、オードパルファムをその中に撒き散らかした。
ピンポーン
「はい」
「如月と申します」
「今開けますね。お待ち下さい」
「はい」
手にした封筒に力が入った。賢治を奪った憎らしい女との対面だ。
「綾野さん」
「は、はい」
緩やかなウェーブを描いた絹糸のような髪は、光に透けて美しかった。
「お忙しいところ申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ主人がお世話になっております」
「わたくし、こういう者です」
如月倫子は、ショルダーバッグから名刺入れを取り出し、淡い桜色の名刺を差し出して微笑んだ。
きさらぎ広告代理店
如月倫子
「如月倫子さん」
「はい、《《賢治さん》》には日頃からお世話になっております」
(賢治、賢治さん?)
その言葉にその女は首を傾げた。
「先日、こちらをお忘れになられたのでお持ち致しました」
「はい」
封筒を受け取る指先は白く、細かった。
(ふふ、どんな反応をするかしら)
綾野菜月は、如月倫子の黒いピンヒールに目が釘付けになっていた。それは賢治と如月倫子が、ただの仕事上の関係ではない事を示唆していた。そして、白檀の香りに塗れたネクタイが見えるように、封筒は意図的に糊付けをしなかった。
(ほら、あなたのご主人様のネクタイよ)
然し乍ら、菜月の反応は薄かった。
(鈍臭い人ね、少しぐらい驚きなさいよ)
菜月にすればただただ臭い封筒を受け取っただけで、如月倫子の思惑は大きく外れた。
(・・・なに、この女)
この調子では、ネクタイをし忘れて帰宅した、金曜の夜の修羅場も期待出来そうにはなかった。
(面白くないわね)
如月倫子は、菜月の足の先から頭のてっぺんまで舐めるように見た。俗に言う、ナチュラル系リネン生地のゆったりとしたワンピース、化粧気のない顔。賢治の女の好みを疑った。
「それでは、また」
そう言うと菜月はようやく怪訝そうな顔をした。ようやく、自身の思惑が通じたのだと思い、如月倫子は喜びでゾクゾクした。閉まる玄関扉、慌てるように施錠される鍵。
(怖がれば良いわ、もっと怖がりなさい)
エレベーターに乗った如月倫子はふと思い付き、ショルダーバッグから化粧ポーチを取り出した。中には黒いスティックの深紅の口紅が入っていた。口元には悍ましい微笑みが浮かんだ。
(これもプレゼントしようかしら?)
如月倫子は、郵便局の自動ドアへと足を踏み入れた。
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