昼過ぎにユカリたちはシシュミス教団の神殿、モルド城へ赴くことになった。ユカリと再会した際にはそうするように教団と約束していたのだ。
約束は守らねばならない。二票。
ばれやしない。一票。
棄権。一票。
シシュミス教団についてはまだよく分からない所が多い。囚われ人と首を垂れる者の神シシュミスを崇めている。主宰者が巫女を名乗っている。クヴラフワ各地に神官を派遣し、この呪われた土地を辛うじて統率している。それだけだ。
一行は幾つかの秘密の道を通った後、四つの名高い通りと六つの歴史ある橋を渡ってモルド城外縁までやってくる。ユカリの今までの旅路でも放射状の街は何度か訪れていたが流れる川まで放射状に広がっている街は初めてだった。
モルド城の外観は近づいてみてもやはり奇妙ではあるが、秘められた長い歴史の積み重ねは目に見えて明らかだ。滑らかな曲線を交えた城郭と城郭を覆う厳めしい支柱はどちらも古めかしいが異なる時代に、支柱が後から誂えられたことがよく分かる。城郭にもまた巨大な獣のような威圧感はあるが、それは塒に横たわって眠りに就いているに違いなく、きっと雨粒に濡れて陽光に輝く美しい毛皮の獣に違いない。寝息まで聞こえてきそうな辺りの静謐さが現代では神殿として利用されていることを思い起こさせる。それをわざわざさらに毛皮の天幕で隠していた時代があり、そしてその時代もまた遠く過ぎ去ってしまった。
しっかり閉じた門前までやってくるとユカリたちを待っていた若い神官に案内される。メグネイルの街で出会った神官たちと同じような白い服を着ているが、より清潔そうだ。
城の庭も城内も人はまばらだ。時折神官とすれ違うと彼らは一様に例の合掌をして小声で何かに祈り、ユカリたちを見送った。
これから彼らの指導者たる巫女と謁見するのだが、今は別の者たちが謁見しているというのでしばらく別室で待つことになった。
が、しかしその者たちは既に謁見を終えていたらしい。ユカリたちの行く手の廊下に現れたのは見覚えのある、もう見たくない黒衣の集団だ。少なくとも鉄仮面はつけていないが。
そこが縄張りの境界であるかのように廊下の真ん中で向かい合う。
「シシュミス教団にとって私たちは切り札じゃなかったの? もう見つかったけど」とユカリはベルニージュの耳元で囁く。
「手札の一つに過ぎなかったみたいだね」とベルニージュはあっけらかんと答える。
救済機構の僧侶たちを率いているのはモディーハンナだった。海に沈んだガミルトン行政区を救うためにユカリと手を結びんで聖女アルメノンの意向に背いたが、後に打算的に再び古巣に恭順した尼僧だ。救済機構の魔法研究を一手に担う恩寵審査会の総長でもある魔法使いだ。理知的な眼差しの青い瞳の下には隈があり、ユカリが最後に見たときよりも顔色が悪い。栗色の巻き毛には艶が欠け、その陰のある佇まいのせいか僧服の上に纏った狐らしき毛皮の衣まで色褪せて見える。そうでなくてもよれた服装で、身だしなみは前以上に気にしなくなったらしい。聖女を失い、救済機構はかつてなく忙しいだろうことが伺える。
僧侶ではない人物も一人まぎれこんでいる。モディーハンナの隣で穏やかな笑みを浮かべる気の良さそうな老人だ。禿頭に白い髭、僅かに曲がった背中、それだけならどんな土地にもいそうな好々爺だ。だが、縦半分に引き裂かれた外套、としか言えない珍妙な服を着ているので魔法使いだろう、とユカリはあたりをつける。
「こんにちは、皆さん」とモディーハンナが先手を打つ。「報告ではユカリさんだけだとのことでしたが、やはり揃い踏み、ですね。一体クヴラフワに何の御用ですか? 魔導書収集家のユカリさん」
喋る様も少し雰囲気が違っていた。疲れを隠しきれず、ずっと刺々しい。
「少なくとも貴方たちみたいに邪な理由ではありません」とユカリは断言する。
「クヴラフワ救済を邪だなんて。教団の皆さんの前では言わない方が良いですよ」
微笑みは変わらず楚々としているが、笑い声は乾いて聞こえる。
「思惑があるくせに」
「今だってこの地を苦しめてきた忌まわしき呪いに立ち向かう方法を教授してきたんですから」
そもそもクヴラフワ衝突が、と言いかけたが、モディーハンナが生まれる前のことで責めるべきではないだろう、と言い淀む。
「どうやったの?」とベルニージュは好奇心に身を任せる。
「結界術、障壁による回廊、ですね」とモディーハンナも隠し立てずに答える。
サイスが言っていた防呪廊という言葉をユカリは思い返す。それのことだろうか。
「ああ、これからは人造魔導書の時代だもんね。これまで歯が立たなかったクヴラフワの呪災も跳ね返せるのか」と合点がいった様子でベルニージュは頷く。
「人造魔導書もありますが、対象を退ける手段ではないですよ。例え十分な力があっても、クヴラフワの呪災相手に従来の方法では意図せず呪詛返しが起きて、下手すればより強力な呪いが無差別に他者を襲いかねませんからね」
「へえ。呪詛返しの的を絞って大王国を狙うとか?」とベルニージュ。
「ああ、それは良いですね」とモディーハンナ。
「ベル!」とユカリ。
後ろに引っ込ませるが、ベルニージュはまだぶつぶつと呟いている。「なんであれ結局のところ物量作戦か。でもなんで? 例の護女エーミにそんな価値が? やっぱり魔導書? そういや焚書官がいないな」
「少なくとも最たる教敵『魔法少女』は私たちの標的じゃありませんよ」とモディーハンナは不敵な笑みを浮かべて言った。
「一枚岩じゃないですもんね」とユカリは精一杯言い返す。
「それでは」通り過ぎる際にモディーハンナが囁く。「教団の前で魔導書の話はしない方が良いですよ」
「うん」ユカリは素直に頷いてから反射的に振り返る。「話したのそっちでしょ!」
モディーハンナの隣にいたはずの老人がいつの間にか殿で振り返り、やはり穏やかな笑みを浮かべて会釈した。
結局、一行はまっすぐに巫女の元へと向かう。シシュミス教団の巫女を名乗っていても実質的な支配者だ。ユカリは古い血の流れを汲む者に会う時はそうするようにぴんと背筋を伸ばし、神妙な面持ちを作る。
ユカリたちが連れて来られたのは謁見の間ならぬ謁見の裏庭だった。かつては軍事教練に使われていた広場であり、今では川から引いた二本の水路が自然の川のように優雅にくねり、せせらぎの柔らかな音を残して流れ去っている。やはり緑の日の明かりの弱さもあってか芝生も木々も花々もどこか弱々しい印象を見せているが、ユカリがクヴラフワに来てから今まで見てきた植物に比べればずっと生命力を感じさせて生き生きとしていた。
濃い緑の芝生の奥には比較的新しいらしい艶めく白大理石の四阿があり、演劇舞台のように左右に伸びており、中央には色鮮やかな花々の描かれた布張りの玉座が据えられていた。しかしそこには誰も座っておらず、四阿の奥で女が一人きり玉座に背を向けて、向こうに流れるレウホルン川の煌めく水面を見つめていた。
来客の気配を察した女が振り返る。するとここが神殿の祭壇であるかのような聖なる気配に満ち満ちる。女は白鳥のように優雅ながら素朴な一揃いの衣を着ている。衣の裾の躍動感は女の振る舞いから現れる。まるで内から光を放っているかのようにユカリには輝いて見えた。長く暗い夜の続いた荒野にようやく明け染めた暁のように辺りを照らしている。楚々としていながら力強い歩みで玉座の隣までやってきて、そこに佇む姿さえ生命感を帯び、浮かべた笑みは素朴で、しかし見飽きることのない、引き込まれるような魅力があった。
「また来てくださったのですね、皆さん。そして新しい御客人。貴女がユカリさん、ですね。初めまして。私は玻璃の子。シシュミス教団の巫女でございます」
ユカリはハーミュラーをまじまじと見つめる。それは三度目の邂逅だ。ただし最初の二度はラゴーラ領で、幽霊として現れた幻の女だ。
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