漠然とした不安のなか、まだ自分が独身だった時、偉央とのお見合いの話を美鳥とここでしたことがあるなと結葉はぼんやり思い出していた。
以前は結葉が選んだ結葉好みの雑誌も数冊立ててあった机上の隅っこのブックスタンドには、今は美鳥と茂雄の好みの本で埋め尽くされていて。
自分はもうこの家には一緒に住んでいないんだなぁと、胸の奥がチクリと痛む。
「ここにゆいちゃんと二人で座ってゆっくりお茶を飲むの、久しぶりね」
考えてみたら結葉が嫁いでからは、なぜかリビングのテーブルで差し向かいに座ってお茶をすることばかりになっていた。
「そのほうがゆいちゃんの顔が見えるから……。毎日会えるわけじゃないしって思ったらお母さんついあっちにカップ置いちゃってたのよね〜」
結葉のすぐ横で寂しそうにフフッと笑う美鳥の声が聞こえて、結葉はますます不安になった。
(じゃあ、今日は何でこっちを選んだの? 私の顔が見えない方がいい話をするつもりなのかな?)
そう思ってしまった。
「えっと……ごめんね。今日は何となくゆいちゃんのお顔を見て話せる気がしなくて……お母さん無意識にこっちに逃げちゃった……」
ポツンと、力なく美鳥からそんなことを言われて、結葉は思わず母の方を身体ごと向いて。
「ねぇ、お母さん、それって……どういう意味?」
そう問い掛けずにはいられなかった。
美鳥はティーカップを口元に上げて中身をひとくち口に含むと、ほぅっと吐息を落とす。
「――あのね、ゆいちゃん。お父さんがね、来月末からニューヨークの支社に異動することになったの」
別にそれは左遷とかそういうのものではなく、寧ろ栄転に近いのだと美鳥は言って。
一人娘の結葉が嫁いだことで、憂いなく旅立てるだろうと、新部門の立ち上げリーダーとして父・茂雄に白羽の矢が立ったらしい。
「お父さんね、最初は一人で行くって言ってたんだけど……ゆいちゃんも結婚して家を出て行っちゃった今、お母さん一人こんな広い家に残されるのも嫌だなって思っちゃって」
「ついて……行くことにしたの?」
恐る恐る問いかけたら美鳥がコクッとうなずいた。
「ゆいちゃんには偉央さんがいてくださるでしょう? 偉央さん、とっても素敵な旦那様だもの。お母さんもお父さんも偉央さんがゆいちゃんのそばにいてくれるから安心してここを離れられるねって話したの」
ニッコリ笑ってそう言われて。
結葉は、まさかその偉央との結婚生活に不安を感じているだなんて、間違っても言えないし、両親にそれを悟られてはいけないと思ってしまった。
そもそも、傍目に見れば、偉央は非の打ちどころのない素敵な旦那様なのだ。
そんな偉央が、妻を言葉巧みに押さえつけて家の中に閉じ込め、軟禁しているだなんて、きっと誰も思いはしない。
いや、よもや偉央と結葉の関係について何かおかしくない?と勘付いた相手がいたとしても、気が付けば――先の琳奈のときみたいに――自然と結葉のそばから排除されてしまうのが常になっていたから。
偉央はきっと、未来永劫両親たちからは「いい夫」だと持て囃されるんだろうなと結葉は思って。
そんな息が詰まるような日々の中にあって、それでも結葉は今みたいに両親と過ごせる時間だけが唯一の心の拠り所だと感じていた。
なのに――。
「あの、でも……お母さん」
思わず眉根を寄せて不安を顔に出してしまった結葉に、
「あ、もちろん、ゆいちゃんに赤ちゃんが出来たらお母さん、お父さんを置いてすぐにでもすっ飛んで帰ってくるわよ?」
と間髪入れずに言われて。
「ほら。偉央さんや彼のご両親もいらっしゃるとはいえ、やっぱり子供を産むとなるとゆいちゃんも不安だろうから。そこは遠慮なくお母さんのこと、呼び戻してくれて構わないんだからね?」
顔を覗き込むようにして手を力強くギュッと握られてしまった。
「あっ! ねぇ、もしかして今日急に家に顔見せに来てくれたのって……」
結葉は美鳥の期待に満ちた目を見て、慌てて顔の前で手を振る。
「ごっ、ごめんなさい、お母さん。そう言うんじゃないの」
顔には出さないように努力はしてくれたみたいだけど、そんな結葉を見て、美鳥が明らかにがっかりしたのが分かって。
今日妊娠の報告とかそういうことでここを訪れられていたなら、どんなにか良かったのに、と思ってしまった結葉だ。
実際は「一人でいたら病んでしまいそうな気がして来ちゃったの」なんて今の美鳥の話を聞いたら、さすがに口が裂けても言えないと思った。
「――た、ただ、ちょっと暇だったから。お母さんと話したくなっちゃって。本当にそれだけ……」
結葉はそこまで言ってから、「でも、タイミング良過ぎて虫の知らせを感じたみたいだね」って何の気なしに付け加えて、そう言えば美鳥も電話でそんなことを言っていたっけ、とぼんやり思った。
美鳥がお茶請けに、と出してくれたクッキーを食べたら、ほろ苦いビターチョコの味がして。
結葉は今目の前にあるお菓子や紅茶は、母のお友達から美鳥への、餞別の品々なんだろうなとふと思って……。
美鳥が結葉になかなかこの話を切り出せずに躊躇していた期間は一体どのぐらいだったんだろう、と考えてしまう。
少なくとも美鳥が、自分の友人らには先に言えた話が、たった一人の娘である結葉には切り出せなかったというのは確かで。
結葉は、そんな母に向かって「『行かないで欲しい』だなんて言えないよね」と胸の奥で何かがつっかえたような息苦しさを感じてしまう。
そう思ったら、自分はこれから誰にも頼らず夫の顔色を窺いながら生きていくしかないんだと現実を突きつけられた気がして……それがすごくすごく不安に思えて。
(偉央さんに、私が抱えているこういう気持ちを吐露したら、どうなっちゃうんだろう? 少しは現状が打開出来たりするのかな?)
紅茶の水面に映ってゆらゆら揺れる、泣きそうな顔の自分を見つめながら、胃がキューッと痛くなってしまうぐらい怖くなった。
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