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「……気持ちいいか?」
そう言って古河冬花(こがとうか)の頭を撫でる手つきは優しく、愛おしさに満ちている。
(……気持ちいい)
手の感触にとろけながら見上げると、頬を緩めて冬花を見下ろす視線とぶつかる。
「……お前、表情豊かだな」
「(そんなの……山城(やましろ)さんだって……いつも仏頂面で……こんな顔見たことない)」
冬花を撫でる手の主――山城 彰人(あきと)。
普段は冷たさすら感じる無表情からは考えられない、穏やかな顔つきと、優しい目つきで冬花を見つめていた。
ふと、冬花の頭にあった彰人の手が、撫でる動きはそのままに少しずつ移動を始めた。
頭にあった手が――冬花の、喉に。
「……ごろごろ」
途端、冬花の喉から音が出た。
喉に空気が入った振動音――よく言われる、「猫」が色んな状況下で鳴らす音である。
色んな意味合いのある「ごろごろ」ではあるが、この瞬間は、当然。
「なんだ、頭よりこっちのがよかったか」
(正直頭も喉もどっちも気持ちいいです……この人撫でるのうますぎなんじゃない……!?)
――などと思っている冬花であったが。
「……にゃう」
実際は、そんな声にしかならない。
(……私が人間のときも、こうやってもっと笑ってくれてもいいのに)
――古河冬花、24歳、女。
正真正銘ヒトであり、ホモサピエンスであり、そこから突然変異したわけでもない。
(……でもしょうがないよね。猫は可愛くて自由で――羨ましい生き物だから)
ただ少し、複雑なのか単純なのか――特殊な理由があって冬花は今、灰色の猫の身体で猫生活を送っているのだった。
第1話 そろそろ限界です
――時間は遡(さかのぼ)り。
「えーっと、ちょっといいかな……」
「なんすか、古河さん」
「さっきお願いしてた、データの入力ってどうなってるかな」
「あー忘れてました。すんません」
「……」
キーボードを叩く音、簡単な打ち合わせをする話し声、電話の鳴る音、と様々な音が溢れる中。
冬花は後輩のまったく悪びれない笑顔を前に、一瞬言葉を失った。
「……そっかー。じゃあこのデータ入力はやっとくからいいよ」
「あ、はいありがとうございます」
ニッコリと笑う冬花に、後輩も鏡写しのように笑顔になる。
その笑顔のまま、冬花は後輩の席を離れた。
(……忘れてたって何? さっき『わかりました』って言ってたし……話聞いてなかったの? てか私まだ午後までの書類できてないんだけど!)
自席に戻りながら、今の自分の状況を思い出していた。
「……はぁ」
「――古河」
「っ!?」
椅子に座った途端冷たい声に呼ばれ、ビクつく。
冬花のデスクの向かい側には、一人の男性の姿がある。
後ろに撫でつけた、緩いオールバックに近い髪型に、スクウェア型の黒縁眼鏡。
切れ長な目が、声同様冷たさを際立たせている。
山城彰人。
冬花の同僚である。
「今日午後締め切りの書類、さっき一斉送信で出しておいた」
その言葉は無機質で、恩着せがましくもなければ親切心も感じられず、ただひたすらに「報告」以上の気配がない。
(まずいまたやってもらっちゃった……!)
内心を押し隠し、冬花は先程後輩に向けた表情と同じニッコリ笑顔を作った。
「あ、ありがとうございます……!」
お礼は大事だ。
自分が抱えていた仕事の一つをやってもらったのだから当然のことなのだが――
「古河はいつになったら、後輩のミスを叱ってちゃんと仕事をやらせるつもりなんだ」
「!」
彰人は、それだけで終わらせてはくれなかった。
「後輩に仕事をちゃんと振れないから、古河が抱える仕事が増える」
「で、も……私がちゃんとできればいいだけの話で」
「できてないだろ。自分の許容量を上回る仕事量になれば、結果的に他の人間の仕事も増やす」
「っ」
彰人の言葉は淡々としていて、決して怒りのような感情的なものはない。
だがだからこそ――
「……すみません」
冬花の口からは謝罪の言葉しか出てこないし、自分がいかにダメなのかをまざまざと見せつけられているような気分になってしまう。
「……俺に謝られてもな」
小さくため息をついた彰人は、そのまま席を立ち去って行った。
椅子に座ったまま、冬花は膝に置いた拳を握った。
(……もう、やだ)
「あー、古河さんまた山城さんに怒られたのー?」
「……大丈夫? 古河さん」
彰人がいなくなった代わりに、通りかかったらしい女性二人が話しかけてきた。
「東野(ひがしの)さんに、瀧本(たきもと)さん……」
「あんな言い方しなくたっていいのにねー? ちょーっとイケメンだからってさー」
「悪気は、ないんだと思うんですけどね……山城さんも」
「え、この状況であっち庇うの!?」
「……」
そんな同僚二人の会話が耳を通るものの、冬花はすでにまったく別のことを考えていた。
仮に冬花が、後輩に指示を出したところで、やってくれるとは限らない。
(それどころか、舌打ちされたり露骨に不機嫌になったり……そんな感じ悪い態度取られるくらいなら、自分でやったほうがマシだし早い……そう思うのは、そんなにいけないこと?)
――彰人からキツく言われるのは、これが初めてではなかった。
冬花自身も彰人の言葉に一理あるということはわかっていた。
(わかってる。結局誰かに手伝ってもらってるからダメなんだよね。抱え込んでできないんだったら、その根本をどうにかしないと……わかってるってば)
それでも、結局彰人と同じようなやり取りの繰り返し。
彰人の方もいい加減苛立ってきているに違いない。
(……ほんと……ほんともうやだ)
――いつもの日常の繰り返しだったこの日、冬花は今までで一番の「しんどさ」を噛みしめていた。
その後の仕事もなんとかやっつけ、夕方。
冬花は最寄り駅よりいくつか前の駅で降り――河川敷に立っていた。
「風気持ちいいなー……」
川の向こうの家々の向こうの赤い陽は傾き、川で少し冷やされた風が頬を撫でる。
この河川敷は、冬花が実家を出る前、学生時代の通学路だった。
そしてこの場所には、思い出深い存在が時折出没する。
いつも会えるわけではないのだが――
「あ……あ! いた!」
川の近くに見覚えのある姿を見つけた冬花は、急いで河原への階段を駆け下りた。
「――銀二(ぎんじ)!」
冬花が呼んだ先には――猫が一匹。
「……」
全身はほぼ灰色で、顔と手足の先が白い毛で覆われていた。
そんな猫が、テラスとして舗装されたコンクリートの上でゴロリと寝転んでいたのが、声に反応して顔を上げている。
――まるで、自分が呼ばれていることをしっかり理解しているかのように。
次回へつづく