第2話 冬花と銀二
「久しぶりだね!」
「……」
人間である冬花が無遠慮に駆け寄ってきても、猫――銀二は逃げる気配がない。
見た目は灰色――見様によっては銀色に見えるが、全身じゃないから、「銀」ではなく「銀二」。
そんな理由で、冬花が勝手にそう呼んでいるだけだった。
「会うのいつぶりだったかな……一ヵ月振りくらい? 最近あんまりいないよね……せっかくだしちょっと話聞いてよ」
「……にゃぁう」
身体を起こすと、銀二は前足をそろえてちょこんと座る。
まるで冬花の言葉を理解し、「やれやれ仕方ないな」とばかりに聴く体勢に入ったように見える。
それを見て頬を緩めた冬花は、正面で腰を下ろすと、後輩が仕事をしてくれないこと、冬花がきちんと叱れないことを指摘する彰人のことなどをポツポツと話していく。
ある程度話し終わると、冬花は大きくため息をついた。
「人間として生きるのって……ほんっと面倒でサイアク」
それが、今の冬花の本音の全てだった。
「問題を起こせば責められるのに、問題を起さないように猫かぶって気を遣えば『ちゃんとしろ』って言われてさ……どうしろって言うのかなー」
――いつの頃からか、冬花はいつでも笑顔を崩さないようになっていた。
何か嫌味を言われても、怒られても、「聞いてますよ」という姿勢を出しつつ相手に警戒されないよう笑顔を絶やさない。
そうすれば大抵の人は、言いたいことだけ言って満足する。
おかしな問題に発展することは少ないのだ。
「――いつからかなぁ。それだけじゃうまくいかなくなってきたの」
「……」
「猫かぶり下手になっちゃったのかなぁ。単純に、学生時代と社会人じゃ違うだってだけだろうけど――」
「つーか、お前のソレは別に猫かぶりじゃねーしな」
突然、若い男の声が遮った。
「……え?」
「だーから、お前が言う『猫かぶり』はオレに言わせりゃ『猫かぶり』じゃねーって言ってんだよ」
「……は? え? 今、声、どこから……」
河原の周りに、冬花以外の人間はいない。
いるのは――目の前で手を揃えて座る、猫の銀二のみ。
「お前の目の前で喋ってるのが見えねぇのかよ。耳もおかしいんじゃねーの?」
「ちょ、え!? 銀二……しゃべ……!?」
若い男の声は、目の前の銀と白の猫の口から聞こえてきていた。
冬花の動揺や混乱など置いてけぼりに、銀二は続ける。
「お前が言ってるソレは『猫』じゃなくて『化けの皮』かぶってるだけだ」
「――!」
状況がおかしくて理解が追いついていなくても。
銀二が――本来喋るはずのない存在が言った言葉が、冬花の脳内に響いてしまった。
(なに、それ……つまり、今まで私が頑張ってきたことが全部無駄って言いたいの?)
頭を鈍器で殴られたような、鈍い衝撃が襲う。
そのせいか、視界がうっすらと霞みがかり、なぜか目の前の猫の周りにゆらゆらと揺れるもの――オーラのようなものが見えた気がした。
それに加え――
(しっぽが……)
ちょこんと座った体勢のままの銀二の尻尾が、左右に揺れている。
だがそれは一本の尻尾ではなく――二本の尻尾が、左右それぞれで揺れているように見えた。
(これは夢なの……? ストレスで神経参っちゃった……?)
そう思ったのを最後に、ブツンと電源が落ちたように――冬花の意識は途切れた。
(……ん?)
ぼんやりした意識の中で、最初に冬花の視界に入ったのは――若い女性の姿だ。
黒髪は少しくせ毛だが、艶やかで手入れが行き届いている。
特別色白ということもない、良い言い方をすれば健康的な肌に、薄化粧。
今はそう太ってはいないが、痩せているわけではないのであまり油断ならない体型――
(……え、わた……し?)
目の前には、座り込んだ体勢の古河冬花本人が、まっすぐ自分を――冬花を見ていた。
「どういうこと!?」
「んー、なんか入れ替わっちまったみたいだなー」
「い、入れ替わった!? ちょ、なんでそんな平然と……って、声、てかなんで猫がしゃべって……いやでも私は猫じゃなくて!」
言いながら、冬花は徐々に自覚し始める。
視界は明らかにさっきまでより低いし、手を見れば見覚えのある――手先だけ白い毛に覆われた、灰色の毛皮。
振り返れば、灰色一色の尻尾もしっかり生えている――が、気絶前に見たのとは違い、一本だけだった。
「まぁまぁ落ち着けよ」
「こ、これどうなってんの!? なんで……!」
「ちょうどいいじゃねぇか」
「な、何が――」
「だってお前は、人間でいるのが嫌なんだろ? だったらそのまま猫の生活を満喫すればいいじゃねーか」
冬花の言葉を遮った銀二は、冬花の顔で――ニヤリと、心から楽しそうに笑った。
「……で、でも! 仕事あるし」
「オレがお前の代わりに行けばいいんだろ」
「え、行ってくれるの……?」
「まぁオレも人間社会ってのは興味あったしな。元に戻るまでの間、冬花の代わりをやっててやるよ」
「……できるの?」
「ったりめーだろ。言っておくがお前より要領はいいんだぜ?」
「っ……」
(いや確かに、私が子どもの頃からなんか銀二って普通の猫と違うなーって思うこと何度もあったけど……でもだからってまさか、こんなことになるなんて……!)
頭では、焦っていた。
まだ状況を飲み込めていない部分もあるが、「このままでは以前と同じ生活ができない」ということは理解できた。
――だからこそ、なのだろうか。
(なのになんで……私今、少しほっとしてるの?)
自問に自答するまでもなく、冬花は今の自分の状況を思い出した。
自分なりに頑張っているのに、うまくいかないこと。
それが積もり積もって、人間としての社会生活が心底嫌になっていること。
「まぁ、そのうち元に戻るだろうし、しばらくお互い人間、猫の生活を満喫しようぜ」
「……」
「お前昔から言ってただろ。『猫になって暮らしたい』って」
「……うん」
――猫になって暮らしたい。
冬花は昔から、猫が好きだった。
実家にいた頃から飼いたいと思ってはいたが――結局それも叶わず、野良猫によく構って遊ぶだけに留めていた。
「よし、じゃあ帰るか」
「え、私の家わかるの?」
「おう。オレは行動範囲広いからなー。今の一人暮らしの家もわかるぞ」
「そ、そうなんだ……」
「だからまぁ、なんかあってもオレの知り合いがなんとかしてくれるだろ。じゃーなー!」
「……」
いつぶりに見ただろう、自分の清々しい笑顔を呆けながら眺めていた冬花。
川を通ってきた風は涼しく、陽の光はもうすぐ消える気配がする。
そんな物悲しく、少し不安を感じさせる夜の気配だったが――
「――こうなったら猫生活、楽しんでやろうじゃない!」
やけくそ気味な言葉とは裏腹に――冬花の心は少し、いやかなり躍っていた。
「後輩叱らないでいいし同僚に嫌味言われないで済むしめんどくさい女子の話に合わせなくてもいい……猫生活万歳!」
そんな冬花の力いっぱいの叫びは――
「みゃあぁぁぁぁ!!」
冬花が知る銀二の――猫の鳴き声として、河原で響き渡るのだった。
次回へつづく
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