テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#四季総受け
ᯠ_ ̫ _ᯄ Ⳋ
21,524
芹沢は表情一つ変えず、静かに長机の向こう側に歩み寄った。
書類を挟んだバインダーを胸元に抱えたまま、ゆっくりと息を吐く。その所作には、いつもの空気のように存在感を消している根暗な社員の面影と、あの夜の冷徹な支配者の不気味さが、不均等に混ざり合っている。
「教えろ。……ですか。貴方はまだ、自分の立場が分かってないみたいですね?」
「……な」
声が、掠れた。
喉の奥が引きつり、言葉が続かない。
芹沢は、責めるような色すら見せなかった。ただ、感情の抜け落ちた淡々とした眼差しで、直立したまま澪を見下ろしている。その態度はどこまでも恭順でありながら、明確な「上下関係」の逆転を突きつけていた。
「お願いする側の言葉遣いではありませんよ、桐島さん」
『編集長』という役職ではなく、一人の男としての名前が、芹沢の薄い唇から零れ落ちる。
ドアの数センチの隙間から、フロアの雑音が小さく入り込んでいた。誰かの笑い声。電話の呼び出し音。すぐ目と鼻の先には日常があるというのに、この数メートルの空間だけが、密室のように冷たく淀んでいる。
「……っ」
澪は拳を固く握りしめた。爪が掌の皮膚に食い込み、鈍い痛みが走る。
頼まなければ、佐伯を奪われ、編集部ごと沈む。頼めば、この男に完全に屈服したことを、自らの口で認めることになる。
選択肢など、端から存在しなかったのだ。
澪はゆっくりと視線を下げた。古びたスチール机の傷に目を落とし、血の味のする唾を飲み込む。
「……頼む」
かすかな、震える声だった。
「……佐伯を抑える方法を、教えてくれ。……芹沢」
自尊心が、足元から砕け散っていく音が聞こえた気がした。
芹沢は数秒の間、無言で澪の惨めな姿を見つめていた。やがて、微かに満足したように、深く静かな息を吐く。
「……ええ。最初からそう言っていただければ、いくらでも力になります。――ただし、それ相応に俺を愉しませてくれたら、ですけど」
いつもの、気味の悪いほど丁寧な部下の口調に戻っていた。だが、その声の底にある冷徹な勝利の余韻が、澪の鼓膜を内側から侵すように深く響く。
(……この、底なしの腹黒が)
胃の奥からこみ上げる吐き気を、澪は奥歯を噛みしめて力任せに押し殺した。
『愉しませる』という言葉が持つ歪んだ意味を、嫌というほど体が覚えている。だが、ここで怒りを撒き散らせば、目の前の男はただ嘲笑い、手持ちのカードをさらに深く突き刺してくるだけだ。
澪は乱れた呼吸を整え、努めて冷徹な「編集長」の面組みを貼り直そうとした。しかし、喉から出た声は掠れを隠しきれない。
コメント
1件
かんなさん、今回も緊張感が凄まじかったです。芹沢の「恭順でありながら明確な上下関係の逆転」という描写、本当に絶妙だなと思いました。澪の掌に爪が食い込む鈍痛とか、「血の味のする唾を飲み込む」みたいな細かい感覚の積み重ねが、読んでいて息苦しいほどでした。あの「愉しませる」という歪んだ条件、何を想定してるのか怖くもあるけど、だからこそ続きを読まずにいられません。澪の立場、辛いですね…。