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「モフモフ禁止令」を発動してから、一週間。
私のささやかな目論見は、今や修復不可能なほどに裏目に出ていた。
触れてはいけない。撫でてはいけない。
公爵家を支える最高に優秀な執事であるはずの彼らから
その「特権」を取り上げた結果、待っていたのは沈静化ではなかった。
それは、理性を限界まで削り取られた末に剥き出しになった、恐ろしいまでの「野生の執着」だった。
「アリア様…その、お袖が……ほんの少し、乱れております」
「……直したい。私のこの指先で、あなたの肌を傷つけぬようそっと整えて差し上げたい。…ああ、ダメだ。禁止、禁止なんだ……ッ!」
ルカは部屋の隅で、まるで自分を縛り上げるように腕を強く抱いてガタガタと震えていた。
いつもなら太陽のように輝いている黄金の尻尾は、今は力なく絨毯に垂れ下がり
獣の耳は不規則にぴくぴくと痙攣している。
その姿はまさに、禁断症状に苦しむ患者のようだ。
しかし、その瞳だけは少しも濁ることなく
飢えた獣の如き鋭さで私の手元の動きを、一ミリの狂いもなく追っていた。
一方のセシルは、音もなく私の背後数センチという
パーソナルスペースを完膚なきまでに侵略する距離をキープし続けていた。
「……アリア様。お疲れですか? 立ち眩みでもされたら大変だ。私の膝を貸しましょうか?」
「えっ、大丈夫よ。それに、過度な接触は禁止なんだからね?」
「……くっ、そうでしたね…」
眼鏡の奥の瞳は、いつもなら深淵のような黒だが、今は妖しく濁った熱を帯びている。
二人とも、明らかに限界だった。
私が一歩動くたびに、獲物を逃さぬよう張り詰められた殺気と
喉を焼くような熱気が背中に突き刺さる。
執事として控えているはずの彼らの気配は
もはや「番犬」や「家猫」のそれではなく
私を食らい尽くそうとする「捕食者」のそれへと変貌していた。
そんな一触即発の状態の中
少しでも気分を変えようと外出した先で、最悪のタイミングが訪れた。
───ザァァァッ!!
「……嘘、そんな。さっきまであんなに晴れていたのに」
空が割れたような突然の豪雨。
私たちは遮るもののない平原を走り、森の近くにぽつんと佇む
古い石造りの避難小屋へと命からがら逃げ込んだ。
中は三畳ほどしかなく、薄暗い。
壁には苔が蒸し、埃っぽい匂いが立ち込めている。
大人三人が入れば、嫌でも肩が触れ合い
互いの体温がダイレクトに伝わってくるほどの、逃げ場のない密室。
「……冷たっ。少し、濡れちゃったわね」
私が髪をかき上げると、毛先から滴がひとしずく、冷たい石の床に音もなく落ちた。
その瞬間だった。
「アリア様! お拭きします! すぐに、僕が……」
「どきなさい、この駄犬! 濡れた髪の繊細な扱いも知らぬ者が、アリア様の御髪に触れるなど無礼極まりない」
二人が同時に、獣じみた反射速度で私の目前に身を乗り出した。
……けれど、彼らは止まる。
空中で静止した彼らの手は、私が発動した「禁止令」という見えない呪縛に阻まれ
あと数ミリというところで激しく震えていた。
「……あ、アリア様。こ、これは『禁止令』の範囲外、ですよね? 髪を拭くのはあくまで『奉仕』であって、甘やかすための『モフモフ』ではありませんよね? ねえ、そうと言ってください!」
ルカが血走った瞳を剥き出しにし、私の至近距離まで詰め寄る。
大型犬獣人特有の、熱く湿った吐息が私の頬に直接かかり、彼の喉の奥で鳴る「グルル……」という唸り声が鼓膜を震わせた。
「いいえ、詭弁はやめなさい。これは紛れもなく『身体的接触』、即ち禁止事項に該当します」
「……しかし! 主の健康を守り、風邪からお守りするのは執事としての最優先義務」
セシルの声は低く、地を這うような威圧感を伴って小屋の空気を震わせた。
二人は私を間に挟んだまま
ついにお互いの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで睨み合い、剥き出しの敵意をぶつけ始めた。
「セシル、お前……! さっきからインテリぶった顔をして、アリア様のうなじにいやらしい視線を送ってるのを僕は知ってるんだぞ!」
「なっ……不潔な想像をするな!貴様こそ、アリア様が先日脱ぎ捨てた手袋を、こっそり自分の寝床に持ち込もうとしていただろう!獣の本能丸出しで主の私物を狙うなど、見苦しいことこの上ない!」
「「なんだとぉっ!!」」
「ちょっと、二人とも……!?やめなさいってば!」
慌てて止めようと手を伸ばしかけるが、今の彼らには私の制止など届かない。
ルカは鋭い牙を剥き出しにして、聞いたこともないような深い唸り声を上げ
セシルの周囲には、怒りに呼応したどす黒い魔力の渦が物理的な風となって巻き起こっている。
「アリア様を一番近くで、物理的に守れるのはこの僕だ! お前みたいな理屈っぽくて陰険な猫に、アリア様の柔らかい髪に触れる資格なんてないっ!」
「黙れ、下等生物。あなたのその粗野な手で彼女の肌に触れさせるなど、想像しただけで虫唾が走る。彼女の隣に立つのは、私という洗練された『知』こそが相応しいのだ!」
「……ひっ!?」
ガチの口喧嘩。
いや、もはやそれは、対等な人間同士の言い争いではなかった。
一人の女性、私という領土を巡り
どちらが上位捕食者であるかを知らしめるための、血生臭い闘争だ。
狭い小屋の中に、獣特有の濃密な匂いと
行き場を失った独占欲の熱が、窒息しそうなほど充満していく。
「二人とも、落ち着いて……っ。お、お願いだから、私の言うことを聞いて!」
私が震える声で精一杯叫ぶと、二人の狂乱がピタリと止まった。
そして、彼らは同時に、首をゆっくりと回して私を見た。
その視線は、執事が主人に向ける慈しみなどではなく、ついに獲物を壁際へ追い詰めた
仕留める寸前の猛獣のそれだった。
「……アリア様。もう、限界です」
「……ええ。決めましょう。…あなたは、今この瞬間、どちらに触れてほしいのですか?」
雨音だけが不気味に響く密室で
二人の「野生」が、私を二度と逃がさないように包囲した。