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「あんた、バカじゃないの?」
久し振りに聞いた。
大学時代までは好き放題遊びまくっていたから、よく言われた。社会人になってからは言われることがなかったのに、まさか三十五にもなって言われるとは思わなかった。
「鴨が葱を背負って来る、まな板の上の鯉、コンドームを持ってやって来たベッドの上の馨ちゃん?」
思わずビールを吹き出しそうになる。
なんてことを言うんだ、この姉貴は。
「馨にゴムは持たせてないし、ベッドにも行かない」
「わかんないじゃない。ゴムの個数、確認したの?」
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、不安になった。
いや、数えたところで昨日までの残りがわかんねー。
新しいのを開けたのがいつか、思い出していた。
「今更数えても遅いわよ」
姉さんが冷ややかな目で俺を見る。
「馨ちゃんが浮気するなんて思ってないわよ」
「なら、ビビらせるなよ」
「ビビるってことは心配なんでしょう? 馨ちゃんにその気がなくても、元彼の方はわからないって」
「大丈夫だよ。馨が好きで付き合ってた男だぞ? そんな変な——」
「前言撤回するわ。あんたは正真正銘のバカよ!」
姉さんがビールの缶を乱暴にテーブルに置いた。
「独占欲や嫉妬なんて、無意識のものよ。自分と別れてからもずっとフリーだった元カノが婚約したって聞かされて、無条件で本心から『おめでとう』なんて言う男がいたら、そいつは間違いなく同性愛者《ゲイ》よ!」
「極端だろ」
「じゃあ、逆にあんただったら? 元カノが婚約しましたって笑顔で報告してきたら、ムッとしないって断言できる? 自分よりいい男なのかって詰め寄りたくならない?」
「ならねーよ!」
「それは、今のあんたには馨ちゃんがいるからでしょう」
「馨がいなかったらどう思うかなんてわかるはずないだろ」
「それもそうね」とため息をつきながら、姉さんが立ち上がる。
「あんたの元カノが春日野玲みたいなのばっかなら、婚約しようが妊娠しようが何とも思わないわね」
「そっちかよ!」
「あんたの女の趣味、最悪。最後に馨ちゃんに辿り着けたのがビックリだわ」
「ボロクソだな。で、馨のことはベタ褒めかよ」
「感じ悪いったらなかったわよ。馨ちゃんと私の前であんたを呼び捨てにして、私に媚び売ってんのが見え見えで」
姉さんが冷蔵庫から出したビールを一本、俺の前に置く。
「付き合ってる頃はそんな女じゃなかったはずなんだけど……」と、ため息が漏れる。
「あの女、実家のこと知ってるんじゃないの?」
「だったら?」
「馨ちゃんには話したんでしょうね?」
あ——。
姉さんに言われるまで気づかなかった。姉さんが呆れた顔で俺を見る。
「あんた、馨ちゃん好きすぎて腑抜けになったの? そんなんじゃ婚約解消されちゃうわよ」
「けど! 玲が馨に話したとは限らないだろ」
「話してないとも限らないじゃない。それに、たとえ聞いたとしても馨ちゃんはきっと何も言わないわよ?」
「どうして」
「あんたの口から直接聞かなければならないことだからよ。だから、私にも聞かないでしょうね」
少し考えればわかることだった。
玲が馨をランチに誘っただの、結婚の理由だのに気を取られていて、考えが及ばなかった。
けれど、なんとなく、馨はまだ知らないような気がした。
「近いうちに話す」
「そうしなさい。で? 肝心のネクタイは?」
「ああ」
そう。今日は姉さんから貰ったネクタイの特定の為に来てもらった。
電話した時は呆れて『いいわよ。全部捨てちゃいなさい』と言われたけれど、馨がこだわっていると言ったら、その日のうちにやって来た。
姉さんは三本のネクタイを選び、他は捨てるように言った。
今週、馨がプレゼントしてくれたネクタイは、最初のを含めて三本。六本あれば、他を捨てても不自由はしない。馨も納得するだろう。
「今日は馨ちゃんに会えそうにないから、帰るわ」
三本目の缶ビールを空けて、姉さんは時計を見た。
二十二時四十五分。
「もう少しで帰るけど?」
「え?」
「いや、帰ると思う」
言い直した。
まさか門限を設けたなんて言えば、また馬鹿にされる。
「さすがに十一時は過ぎないだろ」
「金曜の夜よ? 楽しく飲んでたらわかんないじゃない」
「酒は……飲まない……はず」
「なんで? 馨ちゃんて下戸じゃ——」と言いかけて、姉さんがジロリと俺を見た。
条件反射で目を逸らしてしまう。
昔の癖とは恐ろしい。
「お酒飲んじゃだめだとか言ったわけじゃないわよね」
「……」
「門限十一時とか言ってないでしょうね」
「…………」
「あんたねぇ——」
「それくらいの条件もなく、元彼に会わせるわけないだろ!」
いたたまれなくなって、言ってしまった。
「本気でビビってんじゃない……」
「ビビッてなんか……」
「他には?」
「は?」
「他に条件は?」
「別に」
「言いなさい」
姉さんには敵わない。
「……帰りはタクシーを使うか俺を呼べって……」
「ビール、飲んだじゃない」
「元彼と会った帰りに、俺を呼ぶわけないだろ。タクシーで帰って来るだろ」
「じゃ、玄関で待ちましょ? うまくいけば馨ちゃんの元彼が見れそうだし」
面白がってるな……。
馨の元彼なんて見たかねーよ。
鉢合わせなんて、冗談じゃない。
そう思うのに、なぜか財布と鍵を手にしていた。
二十三時五分前。
思春期の娘の帰りを待つ父親の気分だった。
つーか、ギリギリ過ぎだろ。
まさか、信号に引っ掛かって、なんてベタな言い訳して送れたりしないだろうな。
自分でも情けないほど動揺していた。
今夜、姉さんが来ていなかったら、一人でずっとこの調子だったと思うと、考えただけで胃が痛い。
「あんた……、娘を持たない方がいいわね」
「は?」
「目に浮かぶわ。娘が出かける度にそうやってそわそわするの。そのうち言われるのよ。『パパ、うざい!』って」
「うるせー……よ——」
駅とは逆の方向から歩いてくる二つの人影が見えた。
姉さんも気づいた。
「えっ? もしかして馨ちゃん?」
「姉さん、こっち」
俺は思わず、姉さんの腕を掴んでマンションの玄関横の門柱の陰に隠れた。覗き込まない限り、気づかない。以前、ここでカップルがキスをしていて、驚いた。
「覗きなんて悪趣味よ」
「元彼と握手する方が悪趣味だろ」
「確かに……」
靴音がすぐそばで止まった。
「ここ」
馨の声。
「すっげーマンション」
男の声。若い。
「俺は一生、住めないな」
「高所恐怖症は克服したんじゃなかったの?」
「仕事じゃなきゃ、無理。てか、そういう意味じゃないし」
「わかってるわよ」
「じゃあな。婚約者さんと鉢合わせする前に帰るわ」
「送ってくれてありがとう」
俺と姉さんは顔を見合わせた。馨がマンションに入ろうとしたら、見つかる。
さすがに、元彼の前では避けたかった。
コツコツとヒールの音が近づいてくる。
「馨」
すぐ手前で、元彼が馨を呼び止めた。
自分以外の男が馨を呼び捨てにしていることに、ムッとする。
「ん?」
「お前が結婚しても、約束は生きてるからな」
「え……?」
約束——?
「俺に付き纏われたくなかったら、願いを言えよ」
「付き纏うなんて——」
「婚約者は気に入らないだろう? 元彼がお前と会うこと」
「そうね……」
そうだ。
「なら——」
「それでも……、そこの自販機でコーヒー買って、なんて願いで昊輝との繋がりは消せない」
少しの沈黙。
二人が見つめ合っていると思うと、今すぐ飛び出したくなる。
「昊輝に……恋人ができたら……願いを言うわ」
「馨」
「なんて……。これじゃ、付き纏ってるのは私の方だね」
馨の声が震えている。
「婚約者に話せよ、全部」
全部?
何を?
「全部話して、最後の願いを言えよ。もう、連絡するなって。そうしたら——」
「そうしたら、昊輝は楽になる?」
また、沈黙。
「なぁ、馨」
「ん?」
「全部捨てて、やり直さないか?」
ゴクリ、と音を立てて唾を飲んでしまった。姉さんが心配そうに俺を見ているのが分かったが、目を合わせられなかった。
きっと、酷く情けない顔をしている。
「私が全部捨てるの?」
「二人とも……だよ」
「それで、幸せになれる?」
「……お前はどう思う?」
何を話している……?
二人の会話が、言葉通りじゃないのはわかる。
二人にしかわからない、感情の会話。
「ごめんね……昊輝」
「やり直せないことへの謝罪?」
「違う」
「じゃあ、言うな。俺も言わないから」
「昊輝……」
「俺は後悔してないよ。馨の共犯者になったこと——」
きょう……はんしゃ……?
「俺たちは夫婦になれなかったけど、お前と婚約者はなれるんだ。大丈夫。幸せになれ」
「昊輝……」
「幸せになれ、馨」
寂しそうに言い残して、男の靴音が遠ざかる。
姉さんに袖を引っ張られて、俺は慌てて門柱の後ろから横に移動した。
次の瞬間、馨が門柱の横を通ってマンションに入って行った。
俺と姉さんは大通りに向かって歩き出した。
「大丈夫? 雄大」
「何が」
「何が……って……」
大丈夫じゃなかった。
馨と元彼の間には、深い絆がある。
俺には入り込めない、絆。
そして、それはきっと、簡単には切れない。
馨の共犯者は俺だけじゃなかった——。
『那須川さんが亡くなった時、高津さんがその場を適切に処理してくれたそうです』
『その後から二人の関係が上手くいかなくなりました』
平内の言葉を思い出した。
単なる、勘。
きっと、当たっている勘。
那須川勲が亡くなった時、何かがあった——?
ミステリー小説じゃあるまいし、と思う自分もいた。けれど、なぜか、自分がミステリー小説のキャストなんだと、思った。