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《総理官邸・未明》
午前二時を回っていた。
官邸の窓の外には、
東京の光が
普段と変わらない密度で並んでいる。
だがその光の下で、
この国の時間だけが
もう普通ではなかった。
鷹岡サクラは、
一人で執務室の机に向かっていた。
机の上に広がるのは、
数字、地図、輸送表、病床数、避難者数、
各省庁から上がってきた更新資料。
どの紙にも、
言い方の違う同じ現実が書かれている。
あと二日。
時計の針が進むたび、
日本全体が
一つの見えない崖の縁へ
近づいていく。
サクラは
ペンを置き、
両目を押さえた。
(“二日ある”のか。)
(“二日しかない”のか。)
その答えは、
読む資料によって変わる。
避難計画書では
“まだ動ける余地がある”。
医療搬送表では
“もう限界が近い”。
物流管理では
“今日が最後の調整日”。
住民感情の報告では
“昨日のうちに壊れ始めている”。
机の端に置かれたスマホに、
娘からの短いメッセージが届いていた。
『寝てる?』
サクラは
それにすぐ返せなかった。
(寝てるわけないでしょ、なんて
打つわけにもいかない。)
(でも、
“寝てる”と嘘をつくのも違う。)
少し考えてから、
たった一行だけ返す。
『まだ起きてる。でも大丈夫。』
送信してから、
それがどこまで本当なのか
自分でも分からなかった。
《JAXA/ISAS 相模原キャンパス/プラネタリーディフェンス作戦室》
相模原の作戦室では、
夜が途切れていなかった。
モニターには
茨城県の詳細地図。
主候補帯。
そしてDay0の想定時刻。
だが今、
白鳥レイナたちが見ているのは
“当たるか外れるか”よりも、
その数字が
日本社会のどこを壊し始めているかだった。
若手研究者が
淡々と報告する。
「大きな軌道変動はありません。」
「予測時刻も、
主候補帯も
昨夜から大きくは動いていません。」
レイナは
短くうなずく。
「そう。」
「つまり今日は、
“数字が変わる日”じゃない。」
「“数字を受け取った社会が
どう壊れるかを見る日”ね。」
誰かが
小さく息をのんだ。
もう、
軌道計算だけをしていればいい段階ではない。
壁の別画面には
茨城県内の避難進捗、
車両流出、
病院搬送、
電力需給、
通信負荷が表示されている。
レイナは
そのうちの一つを指した。
「これ。」
表示されているのは、
主候補帯周辺の通信トラフィック急増。
「位置情報共有、
家族通話、
避難所検索、
ライブ配信、
ニュース視聴、
全部が一気に乗ってる。」
若手が言う。
「人が不安になると
まず情報にしがみつくんですね。」
「ええ。」
レイナは
画面を見たまま答えた。
「でも、
情報にしがみつけば
安心できるとは限らない。」
「むしろ、
“11時50分”みたいに
具体的な数字が見えたせいで、
人の想像力の方が
暴走し始める。」
その時、
筑波宇宙センターから
回線が入る。
《JAXA筑波宇宙センター/緊急対策室》
筑波では、
もう“通常業務”という言葉が
意味を持たなくなっていた。
残っているのは
非常通信班、
データ移管班、
退避調整班。
オフィスのあちこちには
段ボール箱。
閉じられた机。
電源を落とされた端末。
空になったロッカー。
筑波の責任者が
やや疲れた声で報告する。
「筑波、
本日中に第三段階退避へ移行予定です。」
「施設維持ではなく
人命優先へ完全切替。」
「常駐人員は
明日朝の時点で
最小化します。」
若い職員が
苦笑する。
「昨日までは
“最後まで残れますか”って
聞いてたんですけど。」
「今日は
“何時の便で家族と合流できますか”
に変わりました。」
別の職員が
小さく言う。
「子どもに、
“パパも明日来る?”って
聞かれて。」
少し黙る。
「“明日には行く”って
答えたんですけど、
守れるかなって。」
相模原側の誰も、
軽い返事はしなかった。
レイナが
画面越しに言う。
「守るために
退避するの。」
「残ることを
責任だと思わないで。」
「ここまで来たら、
“撤収する判断ができること”も
責任だから。」
筑波の責任者が
短くうなずく。
「了解。」
その短いやりとりの中に、
“日本の宇宙機関である前に、
茨城県にいる人間だ”
という現実が
はっきり滲んでいた。
《茨城県・主候補帯周辺/最終避難広報》
朝の町を、
何台もの車両がゆっくりと走っていた。
先頭は警察車両。
その後ろに自治体広報車。
さらに自衛隊の車両、
消防、
レスキュー隊の広報車。
赤色灯が回っている。
だがサイレンは鳴らさない。
代わりに、
スピーカーから人の声が
繰り返し町に流れていた。
『こちらは災害対策本部です。
主候補帯にお住まいの皆さんへお知らせします。』
『オメガ落下予測時刻まで、あと二日です。
本日が実質的な最終避難日となります。』
住宅地の細い道。
商店街の前。
閉まりかけた学校の横。
畑へ向かう道。
墓地へ続く坂道。
車両は、
人がまだいる場所を
一つずつなぞるように進んでいく。
別の車両のスピーカーが
少し低い声で続ける。
『これ以降、
避難対象地域では
救助・搬送が間に合わなくなる可能性があります。』
『まだ避難されていない方は、
直ちに自治体の指示に従い、
指定避難路から移動してください。』
『高齢者の方、
ご病気のある方、
小さなお子さんのいるご家庭は、
ためらわず近くの職員へお声がけください。』
その声は、
威圧ではなく
必死に届かせようとする声だった。
ある交差点では、
警察官が窓を開けた車に向かって
直接呼びかけている。
「この先は
今日の夕方から規制が強まります!」
「戻る予定の方も、
いったん外へ出てください!」
別の坂道では、
消防車両のスピーカーが
少しだけ声色を変える。
『家や土地を離れがたいお気持ちは理解しています。
ですが、
今は命を優先してください。』
『生きて戻るための避難です。
どうか今日、動いてください。』
その言葉に、
玄関先に立っていた老婆が
顔をしかめる。
「戻れるなら、ねえ……」
だがその横で、
娘が
黙って車の後部座席に
布団を押し込んでいた。
別の道では
自衛隊車両のスピーカーが流れる。
『自衛隊です。
主候補帯の住民の皆さまへお知らせします。』
『避難の遅れは、
ご自身だけでなく
救助活動全体に影響を与える恐れがあります。』
『まだ出発されていない方は、
必ず本日中に移動を開始してください。』
それは命令口調に近い。
だがもう、
お願いだけで済む段階は
終わっていた。
道の脇で
ランドセルを背負ったまま立つ子どもが、
母親に聞く。
「なんで
こんなに何回も言うの?」
母親は、
少しだけ声を詰まらせながら答える。
「……本当に、
今日動かないといけないからだよ。」
車列の向こうで、
レスキュー隊の車両が
最後に繰り返す。
『繰り返します。
本日が最終避難日です。』
『明後日11時50分前後の落下が予測されています。』
『まだ間に合います。
どうか、
今日動いてください。』
その「まだ間に合います」という言葉が、
希望なのか、
最後通告なのか、
聞いている側にも
もう区別がつかなかった。
《茨城県・県北から県央へ向かう道路》
朝になっても、
道路の流れは
昨日から切れていなかった。
出ていく車。
止まる車。
少し進む車。
あきらめて脇道へ入る車。
誰かが
クラクションを鳴らす。
誰かが
泣き出した子どもをあやす。
誰かが
給油量を計算する。
誰かが
トイレの場所を探す。
そしてみんな、
同じものを見ている。
スマホ画面の右上。
バッテリー残量と時刻。
どこにいても、
もう時間が
頭から離れない。
サービスエリアでは
簡易机を出した自治体職員が
ペンを握っていた。
「避難先未定の方、
こちらで相談できます!」
「病気のある方、
乳幼児連れの方、
優先案内できます!」
だが人の列は、
案内の速度より
少しずつ早く増えていく。
父親が
窓の外を見ながら言う。
「……今、どこ向かってるんだっけ。」
助手席の妻が
一瞬だけ答えられない。
「西。」
「西のどこ?」
「まだ……決まってない。」
後ろの席で
子どもが聞く。
「引っ越し?」
妻は
振り返って笑おうとする。
でも笑えない。
「ちょっと、遠くに行くだけ。」
その“ちょっと”が
どれくらいなのか、
誰にも分からなかった。
《茨城県・残る町》
避難の流れが太くなるほど、
逆に“残る人”の輪郭も
くっきりしていく。
小さな集落。
山あいの家。
農具の並ぶ納屋。
犬小屋。
物干し竿。
仏壇。
墓地へ続く坂道。
民生委員と自治体職員が
一軒一軒を回る。
「今日が本当に最後の案内です。」
「分かった。」
「では、
避難を——」
「しない。」
それだけの会話に、
十分すぎる重さがあった。
ある老人は
静かに言った。
「あと二日だろ。」
「そうです。」
「二日で
この家を捨てて、
どこに行って
何になる。」
職員は
返せなかった。
別の家では、
娘夫婦が
祖母を説得していた。
「一回だけでいいから、
こっち来よう。」
「嫌だよ。」
「なんで!」
「帰る場所がなくなる気がするから。」
その言葉は、
理屈ではなかった。
だが理屈より強かった。
行政ができるのは
説得と記録と同行だけ。
決断そのものは
最後まで個人に残される。
その残酷さを、
Day2の茨城は
隠さなくなっていた。
《茨城県・病院と介護施設》
搬送車両の音。
ストレッチャーのきしみ。
点滴の揺れ。
看護師の早足。
家族の署名。
電話の保留音。
病院も施設も、
今日だけで
何日分もの判断をしていた。
ある看護師が
同僚に言う。
「“あと二日”って
短いようで長いですね。」
同僚が答える。
「逆。」
「長いようで短い。」
「ずっと苦しいのに、
何も終わらない。」
その言葉に
笑う者はいない。
医師が
患者家族へ説明する。
「こちらではもう、
継続治療が難しくなります。」
「今日中に搬送できれば、
向こうで受けてもらえる可能性があります。」
家族は
泣きながらうなずく。
「本人は
動きたくないって言ってます。」
医師は
少しだけ目を伏せて言う。
「……分かります。」
「でも、
生きてもらうために
今は嫌がられても
動くしかない時があります。」
それは医療の言葉であり、
ほとんど祈りでもあった。
《西日本・受け入れる町》
受け入れ側の町も、
もう“善意”だけでは回らなくなっていた。
体育館。
公民館。
ホテル。
閉鎖中の研修施設。
空き教室。
机の上に
一覧表が広がる。
『受け入れ可能人数』
『家族単位配置』
『医療要支援者』
『小児対応』
『ペット同伴』
住民説明会で、
ある男性が手を挙げた。
「受け入れるのはいいんです。」
「でも、
明日明後日だけじゃないですよね。」
自治体職員が
正直に答える。
「はい。」
「少なくとも、
数日単位では済まない可能性があります。」
会場が
静まり返る。
それでも、
誰も席を立たない。
“助ける”ではなく
“一緒に暮らすかもしれない”
という段階に、
この国全体が入っていた。
《世界の各地》
世界中の政府や人々も、
今度は“日本の災害”ではなく
「あと二日」 を共有し始めていた。
アメリカ
ルース大統領は
日本向けの人道支援チームを
待機状態に移した。
「着弾後支援だけではなく、
その前の避難支援でも
できることをやる。」
韓国
日本語字幕付きで
茨城の避難映像を流しながら、
キャスターが静かに言う。
「私たちは
隣国の“あと二日”を
見ている。」
フランス
夜の討論番組では
「人は、
時刻が見える災害に
どう耐えるのか」がテーマになる。
ブラジル
日系コミュニティの中では
“11時50分”という数字が
そのまま祈りのタイトルに変わる。
カナダ
相談窓口が
“短期避難”から
“一時生活移転”に言い換えられる。
SNS
〈Two days. I can’t imagine living like that.〉
〈Ibaraki, please survive.〉
〈If you have to leave, leave now.〉
〈How do parents explain 11:50 to children?〉
〈We are watching, praying, waiting.〉
“Watching”という言葉が、
支援にも、見物にも読めてしまう。
世界の善意は本物だ。
だがその視線の重さも、
日本はもう受け止めなければならなかった。
《黎明教団・全国同時配信/教団施設》
天城セラは
白い背景の前で
今日も静かに座っていた。
だが、
その声は昨日より
一段深く人の不安に入り込んでくる。
「——あと二日です。」
コメント欄が
滝のように流れる。
〈茨城にいます〉
〈家族が意見ばらばらです〉
〈逃げるべきですか〉
〈眠れません〉
〈怖い〉
セラは
ゆっくりと、
まるで優しい教師みたいに言う。
「恐れていいのです。」
「逃げてもいい。
泣いてもいい。」
「でも、
忘れないでください。」
「あなたは今、
“世界の終わり”にいるのではありません。」
「“世界の変わり目”にいるのです。」
その言葉に
救われる者がいる。
同時に、
深く引きずられる者もいる。
教団施設には
相談者が増えていた。
避難所に入れなかった母親。
家族と揉めた若者。
残るか逃げるか決められない高齢者。
泣き疲れた人たち。
教団スタッフは
やわらかく言う。
「ここにいていいんですよ。」
「意味のない苦しみではありません。」
「光の前で揺れるのは、選ばれた証です。」
一方で、
別の信者たちは
街宣車を出していた。
白い旗。
拡声器。
ビラ。
『逃げるな』
『受け入れよ』
『選ばれた土地を見届けよ』
“あと二日”は、
彼らにとってもまた
勢いを増す燃料になっていた。
《新聞社・社会部》
編集部はさらに静かだった。
でも、
無音ではない。
キーボードの音。
電話の短い呼び出し。
遠くで鳴るテレビ。
紙をめくる音。
桐生誠は
画面に向かって
何度も書き直していた。
“最後の避難”
“あと二日”
“11時50分”
“生活の時間”
“残る町”
どれも正しい。
でも、
どれも少し足りない。
編集長が
後ろから言う。
「迷ってるな。」
「はい。」
「何が足りん。」
桐生は
窓の外を見た。
「……人がまだ生きてる感じです。」
編集長は
少しだけうなずく。
「それ書け。」
桐生は
新しい一文を打ち込む。
『人は、
終末の二日前でも
米を買い、
子どもに靴を履かせ、
墓に手を合わせ、
渋滞にいら立ち、
眠れないまま朝を待つ。
だからこそ、
これはまだ“終わり”ではなく
“生きている途中”の光景なのだ。』
書き終えて、
ほんの少しだけ
息を吐いた。
《総理官邸・夜の会見》
この日の会見は、
昨日までより
さらに静かで、
さらに長かった。
サクラの後ろには
茨城県の詳細地図、
主候補帯、
避難路、
受け入れ先、
東京圏影響図。
だが彼女は、
最初に数字ではなく
今の現実から話し始めた。
「——あと二日です。」
会見場の空気が
止まる。
「オメガの落下予測日は、
明後日です。」
「そのため政府は、
本日を実質的な最終避難日として
対応を進めています。」
「主候補帯に残っている方、
避難先が決まらないまま車中泊を続けている方、
家族の中で意見が分かれている方、
病院や施設の移送を待っている方。」
「どの方も、
今が非常に苦しい時間であることを
承知しています。」
彼女は
そこで初めて
地点と時刻を口にした。
「主候補地点は
茨城県城里町東部~水戸市北西部境界付近。」
「想定着弾時刻は
明後日11時50分前後です。」
「前後数分の誤差はありますが、
政府はこの時刻を前提に
最後の避難と対応を進めます。」
記者たちは
今日は
いつもより静かに聞いていた。
サクラは続ける。
「東京は直撃圏ではありません。」
「しかし、
交通、通信、物流、医療の面で
深刻な混乱が予想されます。」
「JAXA筑波宇宙センターをはじめ、
茨城県内の重要拠点では、
現場要員を減らしながら
遠隔運用への切り替えが進んでいます。」
「機能を守るために
人を置き続けるのではなく、
人を守りながら
必要な機能だけを次へつなぐ段階に
入っています。」
そして、
会見の最後に
彼女はまっすぐ前を見た。
「私は、
あと二日あると思うべきか、
あと二日しかないと思うべきか、
何度も考えました。」
「でも今は、
そのどちらでもなく、
“今日動けることを今日動く”
それしかないと思っています。」
「動ける方は、
どうか今日動いてください。」
「まだ動けずにいる方々を、
政府の視界から外しません。」
「避難先で受け止めてくださっている地域の皆さんには、
大きな負担をお願いしています。
その負担を
国として少しでも支えます。」
「国外から寄せられている
励まし、受け入れの申し出、支援の声にも、
あらためて感謝申し上げます。」
最後に、
彼女はほんの少しだけ
人間の声に戻った。
「あと二日あります。」
「ですが、
“まだ二日ある”ではなく
“もう二日しかない”と受け止めてください。」
「そのうえで、
今日できる避難を、
今日やり切ってください。」
Day2。
オメガ予測落下日まで、あと2日。
“明後日11時50分”という時刻が、
国全体の呼吸を変えた。
逃げる人。
残る人。
説得する人。
受け入れる人。
祈る人。
煽る人。
書く人。
耐える人。
全部が、
あと二日という崖の縁で
同じ空を見上げている。
終末の二日前。
だがその一日は、
絶望のためだけの日ではなかった。
人がまだ、
生きるために
選び続けている日の名前だった。
本作はフィクションであり、実在の団体・施設名は物語上の演出として登場します。実在の団体等が本作を推奨・保証するものではありません。
This is a work of fiction. Names of real organizations and facilities are used for realism only and do not imply endorsement.
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