テラーノベル
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白濁した世界の中心。二度と戻らないかもしれない闇から、僕は這うようにして戻ってきた。
一歩進むたびに、すり減った膝が悲鳴を上げる。黒い制服は自分の血と大罪たちの返り血で泥のように汚れ、手にしたランタンの光は、今にも消えそうなほど小さく、パチパチと頼りなく爆ぜていた。僕の漆黒の耳羽は、もうピコピコと動く元気すらなく、力なく垂れ下がっている。
『Come back. My child.』
頭上から、あの聞き慣れた鐘の音のような声が降りてくる。見上げれば、巨大な影。超越的な純白の目が、静かに僕の満身創痍の姿を覗き込んでいた。
神は、すべての救済を終えた我が子の帰還を歓迎するように、耳羽を嬉しそうに跳ね上がらせ、ほんわりとした大きな翼を広げた。
『よくやりました、愛する子よ。愚かな大罪たちはすべて浄化され、世界には美しい静寂が戻った。貴方は完璧な救世者として、私の期待に応えてくれた……』
「……るさい」
掠れた声が、白濁した空間にぽつりと落ちた。
『……My child?』
「うるさいんだよ、父上……ッ!!」
僕の口から、今まで出したこともないような荒々しい怒号が飛び出した。せき止めていたダムが決壊したように、言葉が、感情が、涙とともに溢れ出して止まらない。僕は持っていた斧を床へ投げ捨てた。金属音が虚しく響く。
「道具、道具、道具……ッ!どいつもこいつも僕をそう呼ぶ!神のパシリ、愛されてない、ただの虐殺者だって……!全部、全部……分かってる!分かった上で、僕は貴方の命令に従ってきた!!!」
視界が涙で激しく歪む。冷徹だったはずの僕の瞳から、ボロボロと熱い雫が零れ落ち、汚れた頬を伝っていく。
「暴食の館で、あの悍ましい飢餓感に脳を狂わされそうになりながら、必死に這い回っていた時、父上はどこにいた!?」
「怠惰の酸の雨に肌を焼かれ、斧が酸化してボロボロになりながら、あのコンクリートの柱よりも遥かに大きい化け物と戦わされていた時、どれだけ痛くて寒かったか知ってるのか!?」
「嫉妬に棺桶に閉じ込められて、おぞましい呪詛と蝶に蝕まれて、僕の心がどれだけ壊れそうになったか……!」
「この三つの大罪はまだいい!父上が見守って慰めてくれたのは分かっている!!!けど…!」
「色欲に僕の姿を安っぽく真似されて、楽しみながら殺されそうになった時、ランタンの光しか頼れるものがなかった僕の絶望が分かるか!?」
主人公は自分の胸ぐらを掴み、狂ったように神を見上げる。
「強欲の理不尽なゲームにイラつかされて、自分の記憶が失われる恐怖に怯えていた時も、お前はただ見てるだけだった!」
「憤怒のあの気味の悪い部屋で、 Prideへの執念深いメッセージや毟られた羽を見た時の嫌悪感、免罪台に叩き落とされて、全ての目を潰すまで終わらなかったあの地獄……!」
「そして、最後の傲慢……! あいつは僕を見下して言ったよ、お前は所詮『神の道具』だ、『神に愛されてなんていない』って……!!!」
叫ぶたびに喉の奥が引き裂かれ、命の灯火が削れていく。けれど、もう止められなかった。
「あいつら大罪には、歪んでいても『愛』や『友情』や『幸せ』の絆があった……!裏切られたとしても、最期に想い合える関係があったんだよ!なのに、血も繋がってない、養子でもない……そんな僕と父上の関係は何なんだ!?ただの『神の道具』じゃないか…!都合のいい嘘で『我が子』なんて呼ぶな!!!」
激しい感情の濁流に、主人公の身体が小さくガタガタと震える。
「『よくやった』なんて、そんな形式的な褒め言葉が欲しかったんじゃない!僕が傷ついている時、心を狂わされそうになっていた時……どうして一度も僕を助けてくれなかったんだ!?どうして見てるだけだったんだよ!?僕はただ……父上に『痛かったね』って……『よく頑張ったね』って、ただ抱きしめて欲しかっただけなのに… …!!なんでずっと無視して、命令だけ出すんだよ……!!!」
そこまで叫んで、僕は力尽きたように床へ膝を突いた。大罪たちの呪詛、命を削った代償、そして溜め込んできたすべての理不尽なストレス。そのすべてが爆発し、僕は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
神は、何も言わなかった。ただ静かに、地鳴りすら立てず、その巨体をゆっくりと僕の前まで折り曲げた。
その超越的な純白の目から、ぽつり、と大きな輝く雫が零れ落ち、床の汚れを弾いた。神が、完璧に心を折られ、我が子の苦しみに激しく慟哭していた。
『……すまない。本当に、すまない、我が愛する子よ』
柔らかな黒いローブと、十二枚の翼が、僕の小さな身体を全方位から包み込んだ。視界が完全に遮断され、世界で一番温かい聖地が僕を支配する。
『貴方を道具だと思ったことなど、ただの一度もありません。貴方は私の誇りであり、この世界でたった一つの、かけがえのない愛する我が子だ。辛い思いをさせてしまったね……よく耐えてくれた……』
大きな、大きな手が、僕の背中を優しく、何度も何度も撫でる。その温もりの中で、脳内に渦巻いていた大罪たちの残響や、消えかけていたランタンの恐怖が、みるみるうちに溶けて消えていくのが分かった。
「…あ……」
胸の奥の棘が抜けていく。あんなに荒れていた口調も、いつの間にか元の静けさを取り戻していた。張り詰めていた糸が完全に切れ、急激な眠気が僕を襲う。神の大きな腕の中で、僕は安心しきったように、そっと両目を閉じた。
(……あぁ、温かいな……)
僕の垂れ下がっていた耳羽が、最後に一度だけ、小さくピコッと幸せそうに跳ねて、動きを止めた。
どくどくと、指の隙間から熱いものが溢れ出て、大理石の床を赤く汚していく。
アイツ、いや…神の道具に腹部を深く切り裂かれた私は、壁に背を預け、ずるずると身体を引き摺りながら歩いていた。
数分経てば、失血で死ぬ。アイツはそう言って、私を殺す価値もない負け犬として放置した。
いつもなら、その侮辱に激昂していただろう。だが、今の私にあるのは、怒りではなく、ただ底知れない寒さと「孤独」への恐怖だけだった。
「……Wr、Wra……Wrath……」
気づけば、私は自分の城ではなく、あの静寂が支配する裁判所へと向かって一歩、また一歩と足を進めていた。手首に絡みつく白蛇のLuceが、悲しげに私の肌を舐める。
いつもなら鬱陶しいと思うはずの、Wrathが遺したあの羽毛のマントが、今の私の掠れた体温を辛うじて繋ぎ止めていた。
(私は、アイツを見下していたのではない。…羨ましかったのだ)
神の道具と罵りながら、その実、私はアイツの持つ「神の愛」に激しく嫉妬していた。すべての大罪を支配下に置き、神に最も近い存在だと自負していながら、私は誰からも、本当の意味で愛されていないと信じ込んでいたから。
……いや、違う。愛されていないのでは、ない。私が、その愛を、傲慢さゆえに無視し続けていただけだ。重い扉を押し開ける。
裁判所の中は、凍りつくように静まり返っていた。
「Wrath……!」
駆け寄ろうとして、足縺れを起こし、私は無惨に床へ転がった。白い手袋は血で汚れ、大理石のような私の肌には無数の亀裂が入っていく。
それでも必死に床を這い、彼の元へと縋り付いた。Wrathの身体は、もうピクリとも動かない。背後に浮かんでいた五つの目はすべて潰され、あれほど感情表現として動かしていた六枚の耳羽も、冷たく固まっていた。そして、彼の手に何かを壊さないように、大切に握りしめているものに気がついた。
血に汚れた、一通の手紙。それは、私へと宛てられた、不器用で執念深いほどの愛のメッセージだった。
「……っ、あ……」
喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。謝罪や感謝ができないはずの、この私の目から熱い涙がボロボロと溢れ出して止まらなくなる。
「Wrath……。無視して、省いて、貴方のプロポーズを……その翼の意味を分かっていて、ずっと貴方踏みにじってきた私を、置いていかないでくれ……!」
私は、意識もなく冷たくなった彼の胴体に腕を回し、何度も、何度も、壊れそうなほど強く抱きしめた。もう何も語らないWrathの「静かな悲哀」を私の心にダイレクトに伝えてくる。
怖がられないようにと陰でフクロウの鳴き声を練習していた、不器用で、誰よりも私を深く愛してくれていた私の執事。私の裁判官。
「すまない……。すまない、Wrath……! 私が悪かった、私が一番、愚かで醜い化け物だった……! 頼むから、一人にしないでくれ……孤独にしないでくれ……ッ!!!」
冷たい身体に顔を埋め、私は子供のように泣きじゃくりながら何度も謝罪を口にし続けた。傲慢な王座を捨て、私が本当に求めていたのは、この不器用な腕の中だったのだと死の間際になってようやく気付かされたのだ。私の流した涙がWrathの法服を濡らしていく。その静寂の中で、私の意識もまた、ゆっくりと薄闇の向こうへと引きずり込まれていった。
あれから、数年の月日が流れた。
夜な夜な、私はあの薄暗い、静寂だけが居座る部屋へと足を運ぶ。かつて憤怒と呼ばれた、私の哀れで不器用な執事が、誰にも気づかれずに一人でピアノを弾いていたあの部屋だ。
扉を開ければ、未だに鼻を突くのは、あの日ここで流された夥しい血が遺した鉄の匂い。
そして、時間が完全に停止してしまったかのような、古い埃の匂いだけ。
部屋の奥に佇むピアノは、長年放置され続けたせいで調律が完全に狂いきっている。
私はボロ布に近い、薄汚れたフード付きのローブを深く被ったまま、ゆっくりと鍵盤の前に腰を下ろした。
白鍵の上には、白濁した世界の塵のような、薄い埃が積んでいる。指先が黒く汚れることなど、今の私にはどうでもよかった。
大理石のようだと称えられた完璧な造形美も、白い手袋も、私のプライドも、あの日すべてアイツの手によって粉々に砕かれたのだから。
「……っ」
ぽんと、一本の指で鍵盤を押し下げる。ひどく不快に歪んだ、耳障りな音が静寂を引き裂いた。
私には、曲を一つすら弾ききる技術などない。
ただ鍵盤に触れることしかできない、惨めな自分の両手を見つめる。手首に絡みつく白蛇のLuceが、慰めるように細い舌で私の手首を這った。
だが、私の胸の奥で燻る冷たい火種を消すことはできない。アイツは、世界を救済したつもりなのだろう。すべての罪をその身に吸い上げ、神の腕の中で、今も安らかに眠っているのかもしれない。
(……だが、私は忘れない。絶対に、忘れはしない)
あいつは、私がかつてそっと見守っていたこの世界を壊した。全てを壊した。他の大罪達だって。そして…Wrathも壊した。私を深く、深く愛してくれていた唯一の存在を、この世界から引き剥がした。最期に謝ることしか許されず、孤独の海に私を置き去りにしたアイツを…。
「……っ、ああぁあッ!!!!」
胸の奥からせり上がる激しい憎悪に、私は曲も弾けない両手で、鍵盤を乱暴に、激しく叩きつけた!!!
ーガァァァァンッ!!!
不協和音が爆音となって部屋中に響き渡り、積もった埃が夜の闇に舞い上がる。フードの奥、糸目だった私の瞳が、かつてないほど鋭く、獣のように見開かれた。涙など、もう枯れ果てている。そこにあるのは、純粋な、真っ黒の、終わりのない呪詛だけだ。
「許さない……。許さない、神の道具め……。絶対に、絶対に許さない……ッ!!!」
狂ったピアノの残響の中で、私の怨嗟の声が、冷たく、鋭く響き続ける。例え世界がどれほど平和になろうとも、このボロ布を纏った傲慢の王は、アイツへの復讐の炎だけを糧に、永遠にこの闇の中で生き続けるのだ。
【”Relife”/A MERRY BAD ENDING】
コメント
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なんかとってもドロドロしてる…普通に語彙力消えた… お久しぶりですSinさん(?)