テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その町では、年に一度、海が「歌う」と言われていた。
調律師の青年・カイは、海岸線に切り立つ古い灯台に住み着いている。彼の仕事は、流れ着いた流木や貝殻を加工し、この世に二つとない楽器を作ることだ。しかし、彼が本当に追い求めているのは、十年前の嵐の夜に聞いた「あの音」だった。
深くて、重くて、それでいて魂を震わせるような透き通った低音。それは深海を回遊するザトウクジラの唄だった。
ある晩、カイが浜辺を歩いていると、砂浜に一人の少女が座り込んでいた。彼女は銀色の髪を月光に光らせ、海に向かって小さな笛を吹いていた。その音色は、カイが長年探し求めていた「鯨の唄」の旋律と、完璧に重なっていた。
「それは、何の曲だい?」
カイの問いに、少女は振り返らずに答えた。
「これは、約束の音。はぐれてしまった片割れを探すための、地図なの」
少女が言うには、鯨たちは海を隔てて何千キロも離れた相手と唄で会話をするのだという。しかし、近年、人間が作り出した船の騒音や人工的な振動によって、彼らの唄はかき消され、多くの鯨が迷子になっているのだと。
「鉄の獣たちが海を走り、その叫び声が、私たちの歌をズタズタに切り裂いてしまうの」
少女の瞳から、真珠のような涙がこぼれ落ちた。その瞬間、カイの胸に一つの閃きが走った。彼は彼女を灯台の作業場へと招き入れた。
カイは、自分がこれまで集めてきた最高級の共鳴板と、巨大な鯨の骨の化石を取り出した。彼は少女の吹く笛の旋律を核にして、灯台そのものを巨大な「蓄音機」へと改造し始めた。レンズの回転に合わせて、海から届く微かな振動を増幅し、空へと放つのだ。
三日三晩、二人は作業を続けた。そして新月の夜。
カイがレバーを引くと、灯台の光の代わりに、深い、深い重低音が海へと放たれた。少女は全力で笛を吹き、カイは自作の弦楽器でその音を補強する。
音は波を越え、水深数千メートルの闇を貫き、地球の裏側まで響いていくようだった。
沈黙が訪れた。海は鏡のように静まり返っている。
諦めかけたその時、足元の地面が微かに震えた。
水平線の彼方から、一つの巨大な潮吹きが上がった。続いて二つ、三つ。漆黒の海面に、月明かりを反射する巨大な背中が次々と浮かび上がる。
「……答えてる」
少女が呟いた。
海中から、地鳴りのような咆哮が返ってきた。それは悲しみでも喜びでもなく、ただ「ここにいる」という存在の証明。何万年も前から繰り返されてきた、命の連鎖の音だった。
夜明けが近づく頃、少女はカイに微笑み、一言だけ「ありがとう」と言って海へと歩いていった。彼女の足跡は波にさらわれ、後には小さな、青く光る鱗のような石が一つだけ残されていた。
それ以来、カイは楽器を作るのをやめた。
代わりに彼は、毎日海辺に座り、ただ静かに耳を澄ませている。風が吹き、波が踊るたびに、彼は知っているのだ。目には見えなくても、この青い闇の底では、今も誰かが誰かを呼ぶ「唄」が響き続けていることを。
コメント
3件
鯨の唄好きな人〜!!!
うわぁぁあぁあッッ!めっちゃ凄いです!!! ミセス大好きなんで嬉しいです!!テンション爆上がりですわw